昭和20年の歴史に触れる。
名前 |
太平洋戦争戦没者慰霊塔 |
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ジャンル |
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住所 |
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HP |
https://www.city.makurazaki.lg.jp/uploaded/attachment/345.pdf |
評価 |
5.0 |
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昭和20年1月、敵機B29が薩摩上空に来襲するようになる。3月17日、敵機の機動部隊から発進した数百機に余る艦載機は、編隊をなして西から東、東から西へと威嚇行動をなす。ついに数十機のグラマンは低空で山間部の集落を機銃掃射。これが枕崎最初の空襲である。枕崎は漁業基地というより、軍の基地としての様相をおびるようになり、戦争末期には、造船所でも軍用船を建造したり、海空の船舶もかなり多かったため、その後も敵機は枕崎方面を繰り返し波状的攻撃を受けている。枕崎地方は、このころ炎天続きであった。午前7時40分、警報と前後して数十機入り乱れて機銃掃射が始まり、市街地の上空に無数の焼夷弾がばらまかれた。多数の油タンクと焼夷弾と燃えさかる猛煙・猛火にいぶり出されたように、防空壕の外に逃げるのに必死であった。被害状況は、この日だけで焼失家屋2,315戸、死者38人(全体では69人)、重傷者27人に及んだのである。更に終戦1か月後には、復興もままならず途方に暮れる人々に追い打ちをかけるように、史上空前の枕崎台風の襲来を受け、枕崎は壊滅的な打撃を受けたのである。戦火で市街地の9割を失った枕崎だったが、市民の懸命な努力により全国的にも類を見ない復興を遂げ一時は人口も増えて発展したが、昨今の過疎化により静かに衰退してきている。