丹波富士で歴史を感じる絶景登山!
八上城跡の特徴
波多野氏の居城跡で戦国時代の堀切や石垣が多数見られます。
春日神社口から30〜40分で標高459mの高城山頂上に到達できます。
丹波三大山城のひとつで大河ドラマに関心がある方にも人気の場所です。
山頂までの道がかなり整備されていました。とはいえ、さすが丹波を代表する山城。なかなかの急な道でした。本丸からの眺望は見事です。
やがみ城。高城山に構えた波多野氏の居城。清秀の子、元清は難波氏を追い出し八上に築城。1557年には三好勢により落城したが晴通、秀治が奪回。その後、光秀による包囲戦により落城。明智滅亡後は羽柴秀勝の家臣が城番、前田玄以、茂勝居城したが出奔。松井康重により篠山城へ。3年ほど前ですが、光秀さんの丹波攻略での籠城の悲惨さなど、よく聞いていた山城にやっと来ることができました。駐車場のある春日神社口から登り、中の壇、二の丸、眺めのよい本丸などへ、下りは池東番所、朝路池など経由して藤木坂口で。各所に標識があり登山道も整備された良い山城です。
駐車場は砂利仕様なのでバイクの方は注意してください。山頂の本丸まで約40分。右衛門コースから登って、藤木坂コースで降りました。登山道はかなり整備が行き届き、登りやすいですが…。もうね還暦前のオッサンにはかなり堪えましたwトイレは右衛門コースの登山口にあるだけなので、事前に済ませましょう。
春日神社登城口より登城。登城路は地域の方が良く整備されていて、高城山山頂の本丸には70代の自分でも45分程で登城出来た。本丸からの眺望も良く、石垣や曲輪跡・掘切、井戸跡等保存状態も良く散策も面白い。野々垣側の登城口ヘ下り、駐車場までの2kmを麓の風景を楽しんだ。
駐車場🅿️より30分で到着しました。 きちんと整備された登山道なので助かります。 ただ長々と続く階段に体力奪われます。山頂からの眺望は最高でした。
登山口から1時間かかないくらいで到着。波多野秀治公の顕彰碑が立派です。ここから景色は絶景です!
明智光秀に滅ぼされた戦国時代の武将、波多野氏の居城跡です。ふもとの春日神社の手前に駐車場が整備されています。トイレも有り。案内板には頂上まで45分と表示されていますが、登山道が整備されており、サクサクと30分で頂上に到達しました。眺望は抜群で、篠山市街が一望できます。
標高459m、春日神社口の駐車場🅿️からの比高246m麓の道沿いにに縄張図付きの説明板、登山コース案内図、神社にトイレ🚾があった整備された登城道をひたすら登れば主郭に着く (;^_^A ゼエゼエ途中に尾根段郭がタップリ堀切♪も見れたし石垣♬が隠れてる眺めは絶景~ ヽ( *´▽`)ノ曲輪にはそれぞれ名前が付いてるらしく数えきれない井戸かと思いきや池らしく今でも水をたたえてた背後に堀切♬を登ると西池番所は水場を守っていたみたい藤木坂コースは道が崩れ気味で 遠慮下さい との張り紙があった(22/12月)遺構を多く見ようとすると時間が掛かって楽しく疲れるトコロ😆
戦国時代、この地域を支配した波多野氏の居城跡です。ただその後明智光秀に攻められ落城、その面影をかすかに残すのみとなっています。この城跡は高城山の山頂にあり、不自然に開けているので、遠くからでもここだとよく分かります。ここに行くにはいくつかの登山口がありますが、車で来られる人は、この高城山の北側にある、登山口駐車場に停めるのがおすすめです。標識出ています。登山道はよく整備されていて、道に迷う心配はほぼなく、またロープを使うような急登もありません。所要時間については色々コメントありますが、普通の体力ある人なら50分以内で十分登れるはず、私は休憩なしで20-25分位であったと記憶しています。山頂はよく開けており、篠山の町並みがよく見渡せると同時に、モミジの木かいくつかあるので、特に紅葉の時期はそれとコラボし非常に美しいです。本格登山という程ではないので、家族連れにも良いと思います。
名前 |
八上城跡 |
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ジャンル |
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電話番号 |
079-552-5792 |
住所 |
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評価 |
4.1 |
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駐車は〒669-2447 兵庫県丹波篠山市西荘に停められます本丸、二の丸からの景色は最高でしたね。三の丸はすすきが生い茂っていて整備されておらず、本丸には波多野秀治の石碑が厳かに建てられていました。多紀郡を支配した波多野氏の5代にわたる居城である。初代清秀は、応仁の乱の戦功によって、室町幕府管領細川政元から多紀郡をあたえられ八上へ入る。その後波多野氏累代は、戦国時代を通して勢力を蓄え、大永7年に管領細川高国を放逐、天文7年に丹波守護代内藤氏を攻略、永禄年間には三好長慶や松永久秀と戦いを繰り広げる。波多野氏はまず奥谷城(蕪丸)を、続いて本城の八上城、さらに殿町にあった城下町を守るため支城の法光寺城を築き、一帯を一大要塞化し、大規模な戦乱に対応した城造りを進める。天下布武を目指す織田信長が上洛すると、5代の秀治はそれに従わず、信長が派遣した明智光秀の攻勢を受ける。光秀は八上城の周囲に付城を巡らし、八上城を徹底包囲する。天正7年6月1年にわたる籠城戦の末八上城は落城し、秀治ら兄弟三人は安土城下に移され落命する。落城後の八上城は、前田茂勝ら豊臣氏に縁する大名の城として使われる。しかし、関ヶ原の戦いによって、徳川家康が天下を押さえると、豊臣秀頼の拠る大坂城を包囲するため、慶長13年に江戸幕府から篠山城築城の命令が出され、八上城は百年余りにわたる歴史を終える。