楠木正成公の殉節地。
楠木正成公殉節地の特徴
楠木正成公が自刃した記念の地で、歴史を感じられます。
玉垣に囲まれた狭い平地があり、静寂な雰囲気に包まれています。
忠義と孝行の美徳が息づく場所で、由緒正しい史跡です。
湊川神社の北西の位置にあり、この場所で楠木正成公が自害したと言われています。とても静かな場所で、石階段に門が据えられ、その外から拝見する形です。九州で勢力を回復した足利尊氏公の東上に対し、楠木正成公は敵を京都に引き入れ新田義貞公の軍と挟みうちににする作戦を提案しますが、朝廷から却下されます。代わりに兵庫で戦うことを命令され、この時点で正成公は討死を覚悟していたそうです。湊川の戦いでは正成公は700騎の少数精鋭で大軍に戦いに挑みます。総大将の新田軍が崩れる中、正成公は尊氏公の弟・直義公の軍に突撃して直義公をあと一歩まで追い詰めます。16度の突撃を繰り返したとされますが、衆寡敵せず残り73騎となり正成公も11箇所の傷を負ったところで、村の民家で弟の政季公と刺し違えて自害しました。その際の二人の会話から「七生滅賊」という言葉が生まれたそうです。
湊川神社の祭神である楠木公ですが、この地で自刃したとされます。鎌倉幕府滅亡の立役者でもあり、後醍醐天皇に忠義を尽くし、承久の乱後、北条氏武家政権に奪われていた政権を朝廷方に取り戻し、新田義貞と共に建武の新政を成就させたものの、非業の死を遂げてしまった英雄でもありますが、湊川の戦い後、長い間自刃された場所が分からなかったのは不思議です。それだけ長い間、武家による政治支配が続いていたとのことでしょう。また楠木正成が歴史の表舞台に再登場するきっかけとなったのが、徳川期になり水戸光圀公が墓碑を立ててからだというのも面白いですが、当時より独自の尊王論を立てた水戸藩の思想の表明であるのではと思います。湊川神社創建の建議をしたのは若き頃の伊藤博文らとされますが、大隈や江藤も賛同しており、幕末期になるとこうした尊王思想もピークに達していく様子が分かりますね。楠木公は、遂には明治13年に最高位である正一位の位階を明治政府から与えられております。1400年前から続く官位十二階を起源とする、国に対して功績のある人物に贈られる、国家に対する官人の評価の尺度を示すものでもありますが、通常は死後程なく贈られるものなのですが、本当に人物の評価というものは難しいですね。ちなみに北条時政や足利尊氏には、同様に位階が与えられなかったんですね。
建武3(1336)年5月25日に湊川一帯で行われた『楠木勢・新田勢』と『足利勢』との【湊川の戦い】において『楠木勢』は【湊川神社】の西側に位置する【会下山】に陣を敷きました。その軍勢は楠木一族を中心とした総勢700騎余りだったと云われています。戦いの中で形勢不利となった『新田勢』が京を目指して退却していき、孤立無援となった『楠木勢』は【太平記】によると6時間の間に16度もの突撃を繰り返し、一時は『足利直義』の間近まで攻め込みましたが、新手の軍勢に押し戻されて73騎まで減ってしまいます。残った『楠木勢』は湊川の東の民家に入ると『正成公』と『正季公』は【七生滅賊(七生報国)】をお互いに誓い合って、刺し違えて自害されました。その自害された場所がこの地だったと云われています。※『正成公』が陣を敷かれた【会下山】には【大楠公湊川陣之遺跡の碑】が建立されています。
男の生き様として憧れる楠木正成公。筋を通して生きることの難しさは、今も昔も同じかもしれないけれど、本当に命を賭けるという意味で昔の人の覚悟は凄まじかったのだと思います。
■楠木正成公殉節地湊川神社本殿の北西にある。楠公自決の地。玉垣で囲い普段は門扉が閉じられている。玉垣の内部は奥行きが有り、階段12段上がって最奥に狭いが横長い平地が在る。此処平地の玉垣の先向こう北側の林が殉節地。社(祠)は無い。●殉節地とされる地は広くない。神社と北側に在る神戸市立中央体育館を隔てる脇道が玉垣からもすぐ近くに見える。鎮守の森には乏しい若く細い木々ばかり。幕末~明治期の尊皇論で再注目されて、官民挙って崇め祀られたか寄進の燈籠も明治期以降ばかりのようだ。摂州尼崎城主遠江守は代々と、楠木正成墓碑辺りに江戸期から燈籠を幾つも寄進している。しかし、此処殉節地には遠江守の寄進したものは見当たらないようだ。◼殉節地前の焼物型燈籠が震災で大破した。替わりに境内既存の青銅燈籠を移設建立。元の石台座は本殿脇に置かれた。◼伊藤博文寄進の燈籠が本殿西端の殉節地近くに在る。別拵えの石垣台は大正期になり神田兵右衛門が補修を兼ね加えたもの。◼神田兵右衛門(こうだひょうえもん)は現在の兵庫県姫路市に天保12年(1841)生まれ。大正10年(1921)没。日本の実業家。町兵隊の編成、明親館など神戸市内十数か所の学校を建設。新川運河や兵庫運河の築造。水道の布設などで功績がある。初代神戸市議会議長をはじめ多くの公職にも就く。「神戸発展の父」とも云う。和田神社に顕徳碑が在る。●お若い宮司の立ち会いで話も出来た。撮影も少ないが出来た。疑問や新説の機会には改めて再見したい。
事前に予約すれば中に入れるなどとは夢にも思い至らなかったので、次回行ったときは、是非入ってみたい。楠木正成(大楠公)と、実弟の正季が差し違えた場所。そして、七生滅敵が生まれた場所。七生滅敵は、時代が進んで「七生報国」となりました。感涙ではありませんが、自然と涙が零れそうになります。
天皇陵巡りをしていた時から来たいと思っていた神社。来れて良かった。
1336(延元元)年, 大楠公が一族16騎, 郎党60余人とともに自刃した場所だと云う。🤔
◎静寂な雰囲気に包まれる場所⚫︎ここは外から祈りを捧げよう。⚫︎門内を拝観など不粋なことはやめよう。
| 名前 |
楠木正成公殉節地 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 電話番号 |
078-371-0001 |
| 営業時間 |
[木金土日月火水] 9:00~17:00 |
| HP | |
| 評価 |
4.3 |
| 住所 |
|
周辺のオススメ
本殿の左側奥にあります楠公は1336年7月4日、延元元年5月25日湊川の戦いに敗れ自害を遂げられたそうです「七生報国」の言葉はそのとき生まれたそうです。