JRの線路前で、1932年の風景を感じる。
ヤンマーパワーテクノロジー 特機事業部 尼崎工場の特徴
夏場のアイドリングストップ対策が重要な地域に位置しています。
JRの線路が目の前にありアクセス性の良い立地です。
1932年に設立された歴史ある産業用機器製造業者です。
夏場のアイドリングストップは厳しい下手したら熱中症になります。
前がJRの線路なので!ヤンマーとは無関係だけど。
一般市民には用事が無いです。
1932年2月気分転換を兼ね欧米視察に出かけた。1932年3月ドイツに着きライプツィヒで開催されているメッセにおいて開発者であるルドルフ・ディーゼルを技術者として抱えるディーゼルエンジンメーカーマン社の映画を見、マン社のディーゼルエンジンの優秀さに取りつかれてしまった。日本国内でもディーゼルエンジンは1919年〜1920年頃船舶用大型エンジンが国産化され、小型エンジンも開発競争が行われたが全て失敗していた。ドイツにおいても小型エンジンはまだ開発されていなかった。1932年7月日本に帰ると早速小型ディーゼルエンジン開発に取りかかり、9月末4サイクル3馬力ディーゼルエンジン試作機が完成した。しかしエンジンは回るが不完全燃焼により黒煙を吐きまくり完全な失敗に終わった。国内の大型ディーゼルエンジンメーカー技術者を採用したが一向に目処が立たず、1年かけても完成できなかったことから、開発に係った社員全員を呼び『私のような者が、世界で最小のディーゼルエンジンを造ろうとしたのが間違っていた。一度諦める。皆には一人200円を渡すので一度温泉に行って疲れを癒してきてくれ』と語った。ところが、社員全員休むどころか逆に精を出し、一層研究開発に没頭していった。1933年12月23日この努力の結果、煙一つ出さず3馬力のディーゼルエンジン(最大5馬力)が快調に回った。世界で初めて小型ディーゼルエンジンが生まれた。ディーゼルエンジンを本格的に生産するためには、現在の工場では手狭なため、兵庫県川辺郡小田村、現尼崎市に2万坪の土地を購入し工場を建設した。戦時中、上陸舟艇用エンジン等としてディーゼルエンジンに大量発注が入ったことから1942年長浜工場を新設した。1945年終戦時本社工場の90%、尼崎工場の70%が焼失し、まともに稼働できるのは長浜工場だけとなっていた。戦後、本社工場・尼崎工場の立て直しを図ると共に、長浜工場で農業用エンジンの生産を開始し、売れ残った船舶用エンジンは映画館等の発電用として販売した。この頃旧海軍の優秀なディーゼルエンジン技術スタッフが入社し、昭和21年(1946年)には新型の船舶用ディーゼルエンジンを発表した。1949年滋賀県伊香郡西浅井村(現長浜市)に小型ディーゼルの燃料ポンプ部品『永原農村精密工場』を建設した。1951年伊香郡木之本町石道(現長浜市)に貧窮農家救済を目的にした『石道農村家庭工場』を立ち上げ戦後の農村再生に協力を行った。地方への貢献等も認められ、この年第一回『藍綬褒章』を受章した。1953年ヤンマーの山岡孫吉は2度目の訪欧視察の旅に出てドイツのマン社を訪問した。そこでディーゼル博士には墓も記念碑も無い事を知り、ディーゼル博士顕彰のための準備を始めた。ドイツの発明家が外国人により記念顕彰されることは初めての出来事とのことで、ディーゼル博士を顕彰しようとする動きはドイツ国内でも大反響を呼んだ。この結果ドイツの研究者から孫吉の小型ディーゼルエンジン開発の功が喧伝された。1955年4月山岡孫吉に対してドイツ人以外で初めてドイツ発明協会より金牌が贈られた。1956年5月にはミュンヘンのドイツ大博物館より名誉理事に推薦された。1957年4月ドイツ政府より大十字功労勲章受章の名誉に浴した。1957年秋、ディーゼル博士顕彰事業として博士が少年期を過ごしたバイエルン州アウクスブルク市の、ビッテルバッハ公園「Wittelsbacher Park」にディーゼル博士生誕100年・ディーゼルエンジン開発60年を前にして、記念石庭苑、「Rudolf-Diesel-Gedächtnishain」を寄贈した。記念石庭苑寄贈後、社名を『ヤンマーディーゼル』に変更した。
名前 |
ヤンマーパワーテクノロジー 特機事業部 尼崎工場 |
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ジャンル |
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電話番号 |
06-6489-8002 |
住所 |
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HP | |
評価 |
2.4 |
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