赤穂藩の歴史探訪、福沢の足跡。
福沢・近藤 両翁学塾跡(慶應義塾・攻玉社跡地)の特徴
赤穂藩森家上屋敷跡のすぐ近くに、福沢・近藤 両翁学塾跡の石碑がある。
全日本人が愛する福沢諭吉の足跡を感じる、貴重な史跡の一つです。
短期間の慶應義塾とその後の攻玉社の歴史が交差する場所です。
さすがお金の価値を知っている全日本人が愛してやまない福沢諭吉、いろいろなところに足跡がありますね。
短期間、慶應があり、その後攻玉社があったらしい。
1868〜1871年、慶応義塾があった場所。福沢諭吉はそれまで築地鉄砲洲にあった家塾をここに移した。1871年、慶應義塾跡地を譲り受けた攻玉社(創立者、近藤真琴)は1871〜1925年、この地で学校を経営した。…石碑は港区立エコプラザの入口脇にあります。
| 名前 |
福沢・近藤 両翁学塾跡(慶應義塾・攻玉社跡地) |
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| ジャンル |
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| HP | |
| 評価 |
2.8 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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史跡「赤穂藩森家上屋敷跡出土の石垣石」の斜め前に「福沢・近藤 両翁学塾跡」の石碑があります。東京都庁のデータベースによれば『福沢諭吉が慶応4年(明治元年(1868))に築地から、芝新銭座の江川太郎左衛門屋敷を購入して移り、慶応義塾と命名した地です。慶応義塾は明治4年に三田に移り、後を明治5年近藤真琴の攻玉社に譲りました。近藤真琴は、鳥羽藩士の出身で、明治2年に築地海軍操練所に攻玉社を開きました。攻玉社は海軍及び測量技術・航海術を教授する異色の学校として発展します。現在は攻玉社学園として存続しています。』とのことです。