紫陽花の花手水と共に、歴史の息吹を感じて。
矢川神社の特徴
手入れの行き届いた楼門や本殿が圧巻です。
水仙や菊を使った花手水で心が癒やされます。
矢川まつりや七夕まつりで楽しいイベントも目白押し!
参拝に行きました。歴史が長い神社です。大己貴命と矢川枝姫命を主祭神としているようです。鳥居を抜けての参道は整備されていて歩きやすいです。桜門が凄く立派で存在感がありました。花手水があり、色とりどりの花があって美しかったです。拝殿は鈴が4個あって珍しいと思いました。鈴緒がカラフルで神聖な空気の中に明るい感じがして魅了されました。自然に囲まれ、立派な建造物を見れて満足しました。境内にゴミが何個か落ちていたのが気になりました。人は一人も見かけなくてのんびりと過ごせました。ですがこの神社でイベントや祭りがある時は混雑します。駐車場はあります。無料で車を停められるようです。
延喜式内社 矢川神社 御祭神 大己貴命、矢川枝姫。本殿 三間社流造、拝殿 正面唐破風付。境内地が、「甲賀郡中惣遺跡群」の一つとして、国の史跡です。楼門 は、大和国山辺郡(奈良県北部)50カ村の雨乞い成就のお礼に寄進されたものと伝わる。1482年に建造 本来は二層だが、風雨で上階を失ったとされる。中世には甲賀忍者の崇敬を集めました。7月7日には火伏せの神様でもあることから甲賀流手筒花火が奉納されます。
紫陽花の花手水が飾られると聞き訪ねました。楼門を潜れば手水舎があり、手水鉢に爽やかな紫陽花が活けてありました。また境内には紫陽花の花も咲いていました。
真田戦記矢川神社滋賀県甲賀市甲南町森尻310甲賀郡中惣創建は奈良時代にもさかのぼり、平安時代の「延喜式神名帳」にも名前が出てくる式内社で、中世には甲賀武士(甲賀忍者)の崇敬を集めました。神社内には、桜門(県指定)をはじめ多くの文化財が残っています。矢川の矢と云う文字は「天」と「ノ」から成り立っていることから、天ノ川と縁があるということで、7月7日には七夕まつりが行われています。近在の多くの子供達が笹飾りを持って集まってきます。また、まつりの終わりには火伏せの神様でもあることから甲賀流手筒花火が奉納されます。甲賀郡中惣遺跡群は、戦国時代に甲賀の土豪・地侍という小領主による水平的連合によって甲賀郡一帯に形成された自治組織に関する遺跡群であり、滋賀県湖南地域の旧甲賀郡域に属する甲賀市から湖南市にかけての丘陵部に所在します。甲賀では、郡中惣を構成した土豪・地侍によって、一辺50m四方の粘土層を利用した高く厚い土塁で囲んだ単郭方形型を基本とする城館が狭隘な谷々に数多く築かれ、さらに典型的な単郭方形型を進歩させた形態の城館も築かれました。
奈良時代、大和にある多くの社殿の建築材料はいったい何処から入手していたのか?それは奈良の天理にある石上神宮等に見られるように、ここ甲南地域の杣(ソマ)、つまり社寺の建築材料を利用する為に手入れしている森林から入手していたのである。それら「杣人」に対する御礼として矢川神社には奈良大和の50あまりある村からここの茅葺の楼門は文明4年(1472年)に寄進されたと云われている。また、社殿には透かし彫りなど凝った、名工の作が見られるが、これなどは甲良地域の職人(日光東照宮造営、江戸城修復、鉄道建築物やその昔、左甚五郎等も使っていた、多くの名工を輩出している地域)から呼び寄せた職人に作らせたといわれている。
とても綺麗に手入れされた神社。
奇麗でセンスの良い花手水でした。竹を切ったサクラの型も凄い。不定期?に花手水が変わるようです。早咲きの桜もあり、奇麗に手入れされている神社でした。駐車場もあります。
2/21参拝、甲賀市にある矢川神社立派な楼門⛩花手水も可愛いかった💕
水仙や菊が可愛くて心が癒やされました。コロナ禍で手を洗うことができないけど、心が洗われました。
| 名前 |
矢川神社 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 電話番号 |
0748-86-3141 |
| HP | |
| 評価 |
4.0 |
| 住所 |
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矢川神社(やがわじんじゃ)。滋賀県甲賀市甲南町森尻。式内社(小)、旧郷社。主祭神:大己貴命 矢川枝姫命(やがわえひめのみこと)大己貴命は殖産興業・健康長寿の神。矢川枝姫命は諸芸上達・諸願成就の神として信仰されるが、矢川神としては雨宮との別名があるように司水神。八河江比売、矢河枝比売とも記され、大国主の子孫の国忍富神(クニオシトミ神)の妻。資料によると、創祀年代は不詳。社伝によると、天平宝字六年(762)、杣川中流の矢川津の地に鎮座と伝えられ、式内社・矢川神社に比定されている古社。杣川(そまがわ)流域二十二ヶ村開拓の祖神と仰がれ、杣一ノ宮とも称され、中世を通じて甲賀五十三家を中核とする連合自治組織である甲賀郡中惣の参会が、しばしば当社で開催されたという。また、当社は請雨に霊験があるとされ「甲賀の雨宮」として内外に知れ渡っており、境内入口の楼門も、その雨乞いの霊験に対する返礼として寄進された。一時期、荒廃していたが、江戸時代には水口藩の崇敬社となり復興。矢川の森から響く鐘の音は「水口八景」の一つ、矢川の遠鐘として親しまれていたが、天保十三年(1842)十月十四日、この鐘を合図に数千の農民が当社に終結。幕府の検地に反対して、近江天保一揆(甲賀騒動)が起こったという。承応元年(1652)、境内にあった勝手大明神が新宮村に遷され、杣ノ荘内九箇村が、当社の氏子となり、三寺村・三大寺大明神社(現日吉神社)に六箇村の氏子が引き別れ以後、この十五箇村は、外氏子と称するようになったという。とあります。