歴史感じる大島興津島神社。
大嶋神社・奥津嶋神社の特徴
歴史ある大嶋神社・奥津嶋神社は、地域の人々に大切にされています。
神社の両端には鳥居があり、正面には大きな池が見えます。
近江八幡市の神社は、船での参拝が行われていた歴史があります。
氏子総代として昨年から3年間大嶋奥津嶋神社、若宮神社、百々神社、若神子の神社を担当します。島町、北津田町から各3名の氏子総代で祭事、維持管理に務めます。
ムベという果実を知ったのを機に、こちらで奉納されているということで参拝させていただきました。雰囲気の良い神社でした。
かなり歴史の有る感じでした。明るくて広い境内、地域の信仰も集めておられるようでした。むべ(植物)が有名です。
建物の両端に鳥居があり、正面には大きな池がある少し変わった神社です。建物はとても立派です。
小さな町なのですが、ずいぶん立派な神社があります。訪問した日の早朝がびっくり寒かったので池が一面凍ってました。
駐車場は正面ではなく裏手にありました。池もあり立派な神社です。
大嶋神社・奥津嶋神社おおしまじんじゃおきつしまじんじゃ滋賀県近江八幡市北津田町529ふたつの神社がありますが双方とも式内社祭神大国主神奥津島比売命社格式内社(名神大・小社)奥津嶋の名の通り近江八幡市から琵琶湖に向かいその琵琶湖の岸辺に鎮座しています社伝によると成務天皇の治世に武内宿禰により勧請。
地元で大切にされている感じの神社です。駐車場は裏手にあります。
『ホツマツタヱ25アヤ』 ヒコミコト チ を ゑる(得る)のアヤより。31スス23年のツウヱ(23年)ウツキ(4月)ハヒ(ハツヒ・一日)のことでした。ワケイカツチのアマキミの称号を名乗る事になったニニキネさんは、深きある思いに辿りつかれたのでした。それは、新たに、ミヤ(首都)を作るべきであるとのお考えでした。ミツホのミヤと命名されたミヤコは、オオシマ(大嶋神社、滋賀県近江八幡市北津田町)さんに造営をお任せになりました。ミツホのミヤの現在地考証は未詳です。おそらく、湖東であったようです。ミツホのミヤの完成後に、ニニキネさん(ワケイカツチのアマキミ)は遷都をなさろうとします。その、遷都の実行の前にアマテルカミに報告をしようとなさいます。『ホツマツタヱ』 25アヤ日本 ヲシテ研究所 「ヲシテ文献 大意」 解説文(C) 池田 満無断転載を禁じます。
| 名前 |
大嶋神社・奥津嶋神社 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 電話番号 |
0748-32-8281 |
| 営業時間 |
[火水木金土日月] 24時間営業 |
| HP | |
| 評価 |
4.1 |
| 住所 |
|
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大島興津島量神社は、延喜式神名帳加列の名神であり、興津島神社は名神大に、大島神社は名神小に列せられている。両者は各々別の処に鎮座されていたと思われるが、いつ頃からか同境に鎮座されている。永仁六年神宮村人の起請文には既に両社と記してあり、延文五年比丘尼法心の寄進状には大島郷奥島庄内の田地を大島息津島両社の神供料として寄進する旨が記されてあるので、それより以前に両社が一境の鎮座である事を、知る事が出来る。本社の創祀は、社伝には成務天皇高穴穂宮遷都の時に、大臣竹内宿禰勅を奉じて勧請するとあり、その後天智天皇志賀大津宮に御在世の折、皇后さま御不予により当社に平癒の祈願されたところ忽に霊験があったので、勅使をご差遺になり奉賽の幣帛を奉られた事や、同七年天皇御幸の時に又幣帛を奉られた事など伝える。島中より所産の薁が天智天皇の御代より、長寿無病の霊果と称えられ長い間、朝廷への貢ものの嘉例などと考えられるは、大津京時代には、比の島と皇室との縁故の深かった事を知る事が出来る。大島神社は大国主命を祭神とし、稱徳天皇神護景雲元年神封一戸を充てられ、興津島神社は奥島比売命を祭る大同元年神封一戸を充てられた事が、新抄格勅符にあり、三代実録貞観元年の条には、近江国従五位下興津島神従五位上を授け奉るとあり、それ以前より神位を授けられていた事を知ることが出来る。大正三年県社に加列、同四年神饌幣帛料供進指定となる。社宝として大般若経六百巻、古文書二百余通を蔵す。