歴史を感じる六角定頼像。
六角定頼像の特徴
六角定頼像は歴史に詳しい方に人気の観光スポットです。
近江守護、六角氏の銅像として地域に存在感を放っています。
立ち止まって写真を撮る姿が見られる珍しい場所です。
ここに来て立ち止まって六角定頼像の写真をわざわざ撮る人はかなりの変わり者か、歴史に詳しいかどちらかと思われますが、Wikipediaで調べたところ、六角定頼さんはもう少し有名になってもいいのではと個人的に思いました。
そういえば、トンネル通る時になんか銅像があるなあ・・・という感じの地元民にも低い認知度の銅像だ。これを見にわざわざ来る人は誰もいないだろう。
近江守護、六角氏の像。実寸より小さいが、強そうな印象をうけます。トンネルのすぐ近くで見落としやすい所にあります。この像の後方に登山道入り口があります。
| 名前 |
六角定頼像 |
|---|---|
| ジャンル |
/ |
| 営業時間 |
[火水木金土日月] 24時間営業 |
| 評価 |
3.7 |
| 住所 |
|
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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六角定頼六角氏 中興の当主生誕 明応4年(1495年)死没 天文21年1月2日(1552年1月21日)明応4年(1495年)、六角高頼の次男として誕生。永正元年(1504年)、京都にある相国寺慈照院に僧侶として入り、吉侍者と称された。永正13年(1516年)、兄・氏綱が細川氏との戦いで受けた戦傷が原因で病床に伏し、永正15年(1518年)に早世したため、定頼が還俗して家督を相続することとなった。室町幕府10代将軍・足利義稙の近侍として仕え、細川政賢を破るという武功を挙げている。後に義稙が追放されると12代将軍・足利義晴の擁立に細川高国と共に貢献し、天文15年(1546年)に義晴からその功績により管領代に任命され、さらに従四位下に叙されることとなった。また、一方で足利将軍家の後ろ盾として中央政治にも介入し、三好長慶とも戦っている(江口の戦い)。さらに北近江の領主・浅井久政が暗愚で家臣団の統率に齟齬をきたしているのを見て、浅井家に侵攻して事実上従属下に置くなど、六角家の全盛期を築き上げた。天文21年(1552年)1月2日に死去。享年58。後を嫡男・義賢が継いだ。先進的な手法で、内政にも手腕を発揮した。大永3年(1523年)には日本の文献上では初めてという家臣団を本拠である観音寺城に集めるための城割を命じた。これは後世の一国一城令の基になったと言われている。織田信長が行ったことで有名な楽市楽座を創始したのも定頼である。定頼は、経済発展のために楽市令を出して商人を城下に集め、観音寺を一大商業都市にまで成長させた。信長は後にこれを踏襲して、楽市を拡大したのである。子女の多くを大名家に嫁がせるなど外交戦略も巧みで、さらに足利将軍家の後ろ盾になることで、当時では中央政治をも左右するほどの勢力を持っていた。