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| 名前 |
中根雪江翁顕彰碑 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 評価 |
3.7 |
| 住所 |
|
中根雪江顕彰碑撰文 口語訳従一位勲一等松平慶永公篆額名は師賢、通称は靫負。雪江はその号である。晩年は雪江を通称とした。曽祖は衆美、祖は衆久、亡き父は衆諧、亡き母は平本氏。代々越前藩に仕える。俸禄は七百石。祖は従五位下讃岐守平忠正であるという。雪江は文化四年丁卯七月三日、越前福井に生まれた。人と為りは重厚かつ寡黙で、常に国のことを心配し、差し置くことはなかった。少壮の頃平田篤胤の門へ遊学する。広く経史に通じ古典に最も精しく、詩や和歌を書いた。それらは皆心の奥底から出たものであり、その能力は凡人の及ぶところではなかった。弘化年間、藩主春嶽公は藩政改革に意欲的で、雪江を参政させた。当時は太平の時代が久しく続き、上も下も互いに贅沢に っていた。雪江は本多敬儀の執政に関与した。近侍頭の鈴木重栄と相計って政治や軍備の学問を振興させることの他、財産の倹約や医術、種痘を広めることをも勧めた。武士間の風潮は大いに変わり、皆福井藩を頼るようになった。癸丑(嘉永六年・一八五三年)アメリカの艦隊が来日して開市を求め、物議を沸騰させた。当時、幕政は次第に衰え、人々の心はそれと乖離していった。春嶽公はこれを憂慮し、そこで尾張藩の徳川慶勝、薩摩藩の島津斉彬、土佐藩の山内豊信、阿波藩の蜂須賀斉裕、宇和島藩の伊達宗城や幕吏岩瀬忠震・川路聖謨らと共に、将軍の世継ぎを定めることを望み、そして人々の心を繋ぎしばしば在野の意見を取り入れた。また春嶽公は、橋本綱紀を京都の青蓮院宮と鷹司太閤・三条内府の諸公へ派遣して陳述した。君実為参謀。事を聞いた幕府は、春嶽公を捕らえて責め幽閉し、綱紀もまた下獄された。雪江は命を捨てても、而得免人以為天幸。雪江は当初専ら鎖国・攘夷の説を唱えていた。しかし、後に橋本綱紀や横井小楠の説に出会いはっきりと悟った。現在の時勢は外交を成しておらず、互いに、富国強兵の術を講じ、国勢を挽回しなければ海外諸国と肩を並べる事はできない。叡旨によって総裁職は再興させられ春嶽公は謹慎を解かれた。雪江は進んで王室を尊んだ。公武一体を画策し、務めなければ国を安らかに治めがたいと考えた。そこで、懸命に機密に関わり、また各地の賢者と接し、昼も夜も休まずに現状打開に努めた。思うにその真面目なひたむきさは天性のものであった。計二十一年間参政し、その間京都及び大阪へ九回、江戸へは十五回派遣された。その劇務の中でも文筆活動を怠ることは無かった。著書には、『昨夢紀事』十五巻、『再夢紀事』二巻や、『奉答紀事』三巻及びその他若干巻が有る。維新後、参与に約五ヶ月任じられ、辞して郷土へ帰った。宿浦(坂井市三国)に居を構え、春嶽公は雪江宅を松蔭漁屋と命名した。雪江は魚釣りを趣味とし悠悠自適の生活を送り、幾若与世遺者。これより後、朝廷より功績を記録するために禄を四百石賜わり、また福井藩からも百五十石賜わった。明治十年一月、天皇は京都へ行幸した。雪江は特別に拝謁を賜わり、受けた恩に感謝した。また、東京へ赴き数ヶ月間滞在し、この年の十月三日に真崎寓館で亡くなった。享年七十一。品川海晏寺の松平家墓地に葬られた。諡は堅磐松蔭命。朝廷より祭祀料五十円を賜わった。春嶽公が雪江の墓表をつくった。八年後、特旨を以って従四位を贈られた。妻には先に亡くなった荒川氏がおり、三男七女を設けた。長男の牛介は家を継ぎ、次男西市は別の一家を成した。次女は嫁入りしたが、その他は皆夭折した。私と雪江の交わりは一日にして成ったものではなく、平生よりその義は深かったことは言をまたない。銘に曰く。明良相遇 従古所難 進規左右 納箴晨昏 仰翊皇猷 俯翼私藩名竹垂帛 福を子孫に及ぼし 攀龍附鳳 世豈無倫 冥鴻千里 是為絶群明治二十五年六月海舟勝安芳撰併書。