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名前 |
吸坂山古墳群 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
4.0 |
加賀市の南部にある丘陵地帯には、吸坂山古墳群(すいさかやまこふんぐん)という古墳時代の墳墓群が広がっている。大聖寺川の西岸に位置する吸坂山には、4~5世紀頃、この地を治めた豪族の古墳が数多く築かれている。中でも特に目立つのは、D13号墳という全長67メートルにおよぶ立派な前方後円墳だ。丘陵の斜面を利用して造られており、その姿はこの地に強力な権力を持った人物が存在したことを物語っている。ほかにも方墳や円墳などが点在していて、古墳の多彩さがこのエリアの歴史的な重要性を示している。吸坂山古墳群の中心をなす吸坂丸山古墳群(すいさかまるやまこふんぐん)では、これまでの発掘調査で、3世紀末から4世紀末にかけて方墳が3基、5世紀には円墳が3基築かれたことが確認されている。これら古墳からは様々な副葬品が出土している。なかでも特筆すべきは、2号墳から出土した鶏形の土製品で、全国的にも珍しい祭祀関連のものと考えられている。また、5号墳では衝角付冑という、前面に角のような突起をもつ鉄製の甲冑や、金製の小さな環飾りが出土しており、被葬者が特別な地位や武人的性格を持った人物だったことをうかがわせる。こうした副葬品から、吸坂山古墳群を築いた豪族たちは、ヤマト王権(畿内の中央政権)と深く結びつき、その影響を受けていたと考えられている。当時、加賀市一帯の江沼(えぬま)地方には、江沼臣(えぬのおみ)と呼ばれる豪族が治める強力な首長勢力があり、その影響力は吸坂山古墳群の規模や出土品からも明確だ。また周辺地域には、吸坂だけでなく、分校古墳群(ぶんぎょうこふんぐん)や黒瀬古墳群(くろせこふんぐん)など多くの古墳が集まっており、南加賀地域が古代において重要な政治的拠点だったことを示している。分校古墳群からは、中国製の銅鏡など高級な威信財が発見されていることからも、この地域が古墳時代において特別な地位を持っていたことがよく分かる。吸坂の地名についても興味深い伝説が残っている。一説には、かつて朝鮮半島から渡来した陶芸技術者がこの地に窯を築き、「陶坂(すえざか)」と呼ばれていたものが、次第に変化して「吸坂」となったとも言われる。また、この吸坂町には江戸時代初期から受け継がれている名物「吸坂飴(すいさかあめ)」という麦芽飴があり、弘法大師が製法を伝えたという伝説が残っている。いずれにしても吸坂という土地が、古代から近世に至るまで文化や技術の交流拠点として栄えていたことを示す逸話だ。吸坂峠(すいさかとうげ)にも少々不気味な伝承が伝わる。かつてこの峠付近に処刑場があり、『聖城怪談録』という地元に伝わる奇談集には、真夜中に峠付近で頭に火を灯した奇妙な姿の女が現れ、お堂に消えていく姿を目撃したという怪談が収められている。古墳群のそばにある吸坂神明神社は、この物語の舞台とされ、歴史の闇が現在にまで影を落としているようで興味深い。吸坂山古墳群から少し足を延ばすと、国指定史跡の狐山古墳(きつねやまこふん)や法皇山横穴墓群(ほうおうざんよこあなぼぐん)などもある。狐山古墳は全長約55メートルの前方後円墳で、内部からは豪華な副葬品が見つかり、江沼の豪族とヤマト王権との深い交流関係を示している。また、法皇山横穴墓群は6世紀後半~7世紀頃に造られた多数の横穴墓が残る史跡で、日本海側でも最大級の規模を誇っている。こうして吸坂山古墳群から周辺の史跡を辿ることで、南加賀地方が古代から連綿と続く歴史の重要な舞台であったことを改めて実感できる。吸坂山古墳群を訪ねることは、単なる古墳の見学に留まらず、古代の人々の営み、地域の伝承や文化、さらには歴史の重層的な奥行きを感じられる体験となる。派手さはないが、歴史好きはもちろんのこと、静かな土地で過去に思いを巡らせたい人にとっても、間違いなく魅力的な場所だろう。