今川義元宿泊の沓掛城址。
沓掛城跡の特徴
沓掛城跡は、今川義元が宿泊した歴史的な城として知られています。
桜が美しい公園で、四季を通じて訪れる価値があります。
空堀と曲輪の遺構が良く残り、城跡感を楽しめる場所です。
土塁、空堀跡がしっかりと残っていて、看板やトイレなども設置してあり、さすが豊明市の指定史跡という感じです。南側と北側に駐車場がおります。室町時代の近藤宗光が沓掛城主の始まり。9代近藤景春の時、はじめは松平広忠に仕え信長の父信秀についていたが、その死後、信長の代になると今川方につき桶狭間の戦いに参加。結果、討ち死。勲功第一の信長の家臣、簗田政綱が城主となる。その後、川口久助が城主となるが関ヶ原の合戦で西軍のして戦い、負けるとその身柄は伊達政宗へ。そして、その後、沓掛城は廃城。ちなみに、沓掛城は桶狭間の戦いの前日に義元が軍議を開いた城。
桶狭間の戦い前日、今川義元が立ち寄った城趾です。当時の堀や郭が結構残っています。春は桜がきれいです。公園としてよく手入れがされていますし,駐車場やトイレもあります。
沓掛城は尾張国と三河国の境に位置する交通の要衝に築かれた中世城郭で、室町期から戦国期にかけて近藤氏が城主を務めました。1560年の桶狭間の戦い直前には今川義元が本陣を置いたことで知られ、戦略的な重要性が高かった城です。全体は東西288m・南北234mに及ぶ規模で、本丸・二の丸・諏訪曲輪・空堀などが備わる総構え形式。現在は「沓掛城址公園」として整備され、良好な遺構が保存されています。
真田戦記沓掛城沓掛城は山口教継が織田から今川に寝返った時に今川の勢力下に入ります。永禄3年、約2万5千と言われた大軍を率いた今川義元は5月18日には沓掛城に入りました。義元はここで軍議を開き各自の役割の再確認を行います。19日には出立しょうとしますが、この時、義元は落馬し慌てて輿に乗り換えたと言われてます。、桶狭間の戦い、の後で戦功のあった梁田正綱に与えられます。梁田正綱は領地替えを命じられたので城主は最終的に川口宗勝となり川口宗勝は関ケ原で西軍に付いたので、1600年に廃城の運びとなりました。
愛知県豊明市にある沓掛城は「桶狭間の戦い」の前夜に今川義元が宿泊した城として知られている。「桶狭間の戦い」後には織田信長より勲功一番と称された簗田政綱の居城となる。現在は沓掛城址公園として整備されており、本丸、空堀、諏訪曲輪などの遺構が綺麗な状態で残っている。東西288m、南北234mと比較的規模の大きな城で、総堀に囲まれる形式であった。公園の周囲には寺社が集中している。すぐ隣には慈光寺、またその隣に正福寺、そしてその奥には聖應寺と諏訪神社がある。どの寺社も沓掛城と所縁のある寺社である。
戦国時代の城跡です。有名な桶狭間の戦いの前日に今川義元が居た城です。本丸の堀と土塁、井戸が残っています。今は公園として整備されており、駐車場やトイレもあります。閑静な住宅地の中にあるので、探訪するには地図がないと分かりにくいです。
愛知県豊明市にある公園。かつてここに沓掛城が建っていたんですね。今は子どもたちが遊ぶ広場になっていますが、歴史好きな人にはオススメスポット。
御城印を頂きに来ました。こんな町中にしっかりと遺構が残っている事が凄い。石垣積みの城は日本全国に沢山ありますが、室町戦国時代の様式の城郭の遺構がこんなにも当時のまま、残っているのは、日本全国探してもないと思います。山地ではなく、町中の平地で残っているのは貴重です。コレが凄い事。ここなら戦国時代の様式の城の再建、復元が可能です。是非検討して頂きたいです。
愛史協巡り数台止めれる駐車場はサラリーマンの休憩場所となっています…😅案内板の奥には城址があったことがよく分かります。この時期10/28正午、本丸跡は秋晴れにそよ風が吹き、ゆっくりとした時間を過ごせると思います♫弁当買っときゃ良かったー!また、初夏には蛍も拝見できるところでもあります。
| 名前 |
沓掛城跡 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 電話番号 |
0562-92-8317 |
| 営業時間 |
[金土日月火水木] 24時間営業 |
| HP | |
| 評価 |
3.8 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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特にどうって事のない平城ですが、今川義元が桶狭間の前に寄って対織田陣営への対応軍議を開いた場所と言えば思い入れも深まります。この辺一体が兵で溢れた事でしょう.