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名前 |
玄加・玄徳の碑 |
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ジャンル |
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電話番号 |
0959-53-1111 |
住所 |
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評価 |
4.0 |
風化した塔は正保四年(1647年)に立てられたもので「玄徳・松園八郎五郎」の供養塔と考えられています。孫の「玄加」が祖父の松園八郎五郎(玄徳は法名)の為に建立したと伝えられます。彫り跡がはっきり残されている石碑は、松園家の子孫が明治時代に再建したものです。もともとあった石柱が古くなって判読できなくなったため、子孫が同じものを同じ場所に作ったようです。ところで、古い石塔横の小さな石柱は松園八郎五郎の墓と考えられています。松園八郎五郎の墓は曲地区の墓地(日島の石塔群内)にも確認されていますから、彼の墓はこの地域に2基ある事になります。このように集落の内外に2基の墓を設置する風習を「両墓制」と呼びます。土葬が一般的だった中世では遺体は街はずれの「埋め墓(捨て墓)」に埋葬されました。そして墓参用の「詣り墓」を集落内に設置し、それに普段のお参りをしていました。これが両墓制です。死の穢れが村びとに及ばないよう遺体は集落から離れたところに埋葬する。一方祖先の霊を祀る場所は墓参しやすい集落のなかに設置する。このような思想が両墓制の根底にはあったと思われます。あだし野の露消ゆるときなく、鳥部山の煙立ち去らでのみ、住み果つるならひならば、いかにもののあはれもなからん……徒然草の一節です。あだし野と鳥部山(鳥辺山/鳥辺野)とは当時の墓地です。平安時代、遺体はあだし野などの郊外の集団墓地に放置され、「風葬」「鳥葬」という形で「対処」されるのが一般的でした。これも「捨て墓」の一形態でしょう。兼好の時代も死を「穢れ」ととらえ、遺体を居住区域から離れたところに「捨て」たわけです。ちなみに庶民はあだし野に、貴族は鳥部山(野)に埋葬(放置?)されたようです。余談ですがあだし野のように「野」という文字が入った地名は、かつての「墓地」であった可能性が高いと考えられています。