凛々しき小松宮像、上野の桜と共に。
小松宮彰仁親王銅像の特徴
明治15年に改められた小松宮彰仁親王像は特異な歴史があります。
銅像は上野動物園近くの木々に囲まれた場所に安置されています。
凛々しい軍服姿で騎馬像が見られる印象的な存在です。
上野動物園正面入り口・向かって左側の木々に囲まれた場所にある。陸軍大将、近衛師団長など軍務の一方で、日本赤十字社の総裁として赤十字活動の奨励・発展に尽力した。現在、皇族が公務として行っている社会活動の礎となった。
上野動物園の入口付近に「小松宮彰仁親王像」があります。上野恩賜公園HPには『明治維新の功労者であり、会津征討の総督(東征大将軍)に任じられ、日本赤十字社にも貢献された、伏見宮邦家親王の第8王子「小松宮彰仁親王」(仁和寺宮純仁法親王)の騎馬像です。輪王寺第13世門跡で寛永寺第15代山主の公現法親王(還俗後、北白川宮能久親王)は、小松宮様の弟宮にあたられます。』と書かれています。
伏見宮家の王子で、明治15年(1882)小松宮家に改める。青年時代は京都の仁和寺で僧侶として暮らしていたそうです。騎馬像のお顔は軍人というよりも貴族らしい雰囲気でした。
1912年に落成し た小松宮彰仁親王の像。戊辰戦争、佐賀の乱、西南戦争といった内乱鎮圧の指揮をとり、1890年に陸軍大将に昇進。近衛師団長、参謀総長などを歴任しました。日清戦争の際は征清第総督として旅順に出征しました。その後は日本赤十字社などの総裁を務め、社会事業にも貢献し、1903年に死去。銅像は日本赤十字社の創始者である佐野常民が日本赤十字社設立25周年の記念として建立を提案(佐野常民は西南戦争で負傷者介護にあたる公的機関・博愛社の設立を提唱。博愛社は日本赤十字社の前身で、博愛社設立時に総長となったのが小松宮彰仁親王である)したものです。
小松宮彰仁親王は、伏見宮邦家親王(ふしみのみやくにいえしんのう)の第8王子。幕末には仁和寺第30門跡を務めていましたが、還俗を命ぜられ、仁和寺宮嘉彰親王(にんなじのみや よしあきしんのう)と名乗って奥羽征討総督として官軍の指揮を執り、明治3年に東伏見宮に改めて、明治7年の佐賀の乱では征討総督、明治10年の西南戦争にも旅団長として出征。明治15年、宮号を仁和寺の寺域の旧名小松郷に因んで小松宮に改称しています。ヨーロッパの王族が進んで軍務に就いていることを倣い、明治23年、陸軍大将に昇進し、近衛師団長、参謀総長を歴任、日清戦争では征清大総督に任じられ旅順に出征しています。日本赤十字社、大日本水産会、大日本山林会などの総裁を務めるなど、社会事業にも貢献。明治36年2月18日、57歳で没(墓所は豊島岡墓地)。銅像は、佐野常民(さのつねたみ)が、明治35年、日本赤十字社設立25周年の記念としての建立を提案したもの(佐野常民は、明治35年没)。小松宮彰仁親王が旅団長として出征した西南戦争の際に負傷者介護にあたる公的機関として博愛社の設立を提唱したのが佐野常民です。この博愛社は、日本赤十字社の前身で、初代の博愛社総長は、東伏見宮嘉彰親王(小松宮彰仁親王)だったのです。銅像の制作は、東京国立博物館表慶館前のライオン像も手掛けた彫刻家・大熊氏廣(おおくまうじひろ)。小松宮彰仁親王像近くにはグラント将軍植樹碑もあります。(東京とりっぷHPより)
上野公園の銅像は、軍服姿で軍馬に騎乗される姿が印象的ですが、元は、仁和寺の門跡から還俗して軍務に就いた異色の方です。小松宮という宮号は、門跡であった仁和寺がある土地の名に因んでいるそうです。そう思って銅像を見上げてみると、上野公園の桜に馬を馳せる姿が、仁和寺の御室桜に想いを馳せながら進む姿にも見えてきます。2023年の上野公園、新型コロナウィルスの憂いもなく桜が愛でる花見の場所です。やはり小松宮のお顔も心なしか穏やかに見えます。
植え込みで区切られていて雰囲気があります。季節ごとの写真が撮れそう。
小松宮彰仁親王殿下は初代近衛師団長でも在り征討大将軍としても有名で日本赤十字社初代総裁で在る明治天皇からの信頼が篤く皇族武官でも有名な武官で在る。
上野公園の中心部で一番開けた場所の角に在る像。立派な軍服を着て騎馬に跨る姿に一枚収めましたが、存じ上げなかったので検索してみましたら…明治期の国内外の混乱に先陣を切って東奔西走されたのですね(ザックリ纏め過ぎですが)。
名前 |
小松宮彰仁親王銅像 |
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ジャンル |
/ |
電話番号 |
03-3828-5644 |
住所 |
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HP |
https://www.kensetsu.metro.tokyo.lg.jp/jimusho/toubuk/ueno/midokoro/index.html |
評価 |
3.9 |
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日本赤十字社(西南戦争負傷者救護団体であった博愛社改め)初代総長。