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黛神社(まゆずみじんじゃ)。上里町黛。旧村社。社号標が丸みの石棒、「供進指定村社」とある。祭神:倉稲魂命(うかのみたまのみこと)。丹党一族・黛氏創建(平安末期)。武蔵七党の一つ、丹党の支族黛某の勧請せし神社なりとある村社です。すぐ南は忍保川と面し、対岸の金窪城址に近い神社です。西には中山道から分岐して、上野国(群馬県)に至る三国道が通っていたとあります。北進すると烏川に至り、賀美郡毘沙吐(びさど)村の「藤ノ木渡し」を経て、上野国の角渕に至る様です。尚、中山道に新町宿が開いてからは三国道のルートはそちら経由になります。(添付写真参照:中山道から三国道への分岐点に立つ「三国道 入口」と刻まれた石柱)資料によると、黛神社は黛大明神と称して烏川に接する地にあったが、たびたび水害にあったため、いつの時か現在地に移転した。一時期「社具司(しゃぐじ)明神」と唱えていたようで(江戸期以降と想定)、この「社具司(しゃぐじ)」は諏訪系の社名である。案内板には「内陣に奉安される御影軸には、中央に雨宝童子、左下に正一位黛大明神、右下に正一位諏訪大明神が描かれている」との記載がある。境内神社・諏訪神社:かつて当地の名主を務めた小暮家の先祖が信濃国上諏訪から移り住む際に(江戸時代黎明期)、諏訪神社を守護神として勧請したのが始まりと伝わる。上里町黛地域がルーツとの説もあり、「丹党黛氏」は当地に土着した武士団一族という。とあります。内陣に奉安される御影軸より祭神を見ると、①[中央]雨宝童子(うほうどうじ)は、災いを除いて福をもたらす童子とされ、神仏習合思想によって生まれた日本独自の仏像です。天照大神が地上に降り立った時の姿とされる\ufeff。本地垂迹(ほんじすいじゃく)とは、仏教と神道の関係を説明する神仏習合の思想です。仏や菩薩が本来の姿(本地)から、神という仮の姿(垂迹)に変身して人々を救ったとされています。\ufeff②[右下]正一位諏訪大明神。③[左下]正一位黛大明神、黛大明神は当社の三番手の位置の地主神の様で、正一位を冠することからすれば、稲荷神(倉稲魂命:うかのみたまのみこと)。鳥居形状から判断しても、当社は神明鳥居なので、伊勢神宮の神:天照大御神(稲荷神社も一部は神明鳥居)を象徴。諏訪神社は神明鳥居と言われているが、諏訪大社を始め多くが明神鳥居。諏訪神:ミシャグジ信仰社として、「社宮司社」と言う近世からの神仏習合の時代に 雨宝童子(天照大御神)様と一緒に祀られた様です。尚、社宮司社については:赤宮・社宮・尺地・社護司・斜口、またはおしゃもじさまなどと種々の名称でよばれ、風邪や咳などをなおす神として信仰された。それに御と冠せば「御社宮司」ミシャグジと読め、諏訪神:ミシャグジと類似しています。対岸の金窪城(址)は平安時代末期の治承年間(1177~1180)に、黛氏と同じ武蔵七党の丹党から出た武蔵国高麗郡加治荘の豪族加治家季(かじ・いえしげ)が築城したと伝えられています。東隣りには天台宗観音寺があり、当社は観音寺持であったが、明治の神仏分離により観音寺から離れ、明治五年に村社となった。一方、観音寺は明治七年に廃寺となったとあります。指定文化財・正観世音立像と書かれた古い木柱(昭和37年とある)が、境内東にあるお寺のお堂らしき建物の軒先にありますが、現在の上里町の指定文化財リストには載っていませんでした。