歴史深い稲田八幡の銀杏。
稲田八幡神社の特徴
秋には美しい銀杏が楽しめる、閑静な住宅地に位置する神社です。
大きな砲弾と古い大銀杏が、訪れる人々の目を引きます。
河内国稲田村の古文書にも記される、歴史的な境内を持つ神社です。
閑静な住宅地の中にある八幡宮です。鳥居をくぐると左手に平和を祈念する石碑と正面に大きな銀杏の木が目につきます。静かな社で心が落ち着きます😊
秋の銀杏は綺麗ですよ‼️💨
御祭神は仲哀天皇、神功皇后、応神天皇、別名稲田八幡神社1431年誉田八幡宮より勧請されたのが起源と伝わっています、御神木の銀杏の木は樹齢500年で市の天然記念物に指定されています(樹高35メートル幹回リ5メートル)もある古木です、境内には日露戦争の記念碑も有り砲弾も有りました。
コロナで鈴を外してました。
訪れまず目を引くのは大きな砲弾と大銀杏の木。他の神社にも日露戦争の記念碑はあるがこれほどのものはここだけだろう。神社は他に飾り気はないが、このふたつ、砲弾の列と大銀杏の木だけが記憶に残る。それと寛永元年(1624年)に寄進された鳥居。将軍家光のころである。
家の氏神様‼️ご利益大有り‼️
自分が住んでいる地域の神社です。子供時代の遊び場でした。
古いお八幡さんのようです。自転車で通りすがりに撮影しました。地元の方も初詣されるところです。
この河内国稲田村のことは、古文書にも記述されています。『二條宴乗記』の元亀元年(1570)9月8日の記述に、(河内国)稲田へ舟にて参り。稲田寺内古橋合戦に焼け。残る家松永山城守久秀衆陣取り、皆々取り破る。屋根など無きの間、ミをかづき一夜を明し、とあります。 宴乗は、奈良興福寺一乗院門跡坊官の二條宴乗のことで、この時、幕府・織田信長方松永山城守久秀に加担しており、一行は、摂津国中嶋(今の中之島)方面へ向かう途中に稲田村へ宿営しました。記述では、稲田村も合戦の被害を受け、家々が焼けていたようです。焼け残った家も、松永方の軍勢によって、焚き付けにでもするのか、家の部材は引き剥がされ、屋根が無かったと記録しています。 記録の日付は旧暦ですので、今の西暦より40日程季節感覚が遅いので、現在の暦で言うと10月下旬で、初冬にも近い自然環境です。朝晩は寒いはずですので、こういう事が起きたのでしょう。 また、稲田村は本願寺宗派の影響力の強い地域でした。前記の記述にある「稲田寺内」とはそれを指すのでしょう。この記録の直後の9月13日、本願寺宗が幕府・織田信長方へ敵対を表明し、一斉蜂起して後は、一転して敵対関係になります。今も稲田村に残る正行寺や存空寺は、そういった流れを汲むかもしれません。 曲がりくねった道や鍵型の道、道幅などは、旧態の名残りとも思え、ワクワクします。土地の起伏も当時とあまり変わらないのでしょう。もちろんこの八幡宮もその当時から確実にあったはずで、きっと松永久秀などの武将も八幡宮とあっては、武士ならば、きっと参宮したと思われます。
名前 |
稲田八幡神社 |
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ジャンル |
/ |
電話番号 |
06-6748-3120 |
住所 |
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HP |
https://osaka-jinjacho.jp/funai_jinja/dai6shibu/higashiosaka-city/t72.html |
評価 |
3.6 |
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近所なので散歩がてら行ってきました。銀杏の木は圧巻の大きさです。12月の初めでちょうど良い色づきでした。人はほぼ全くいませんでした。駐車場はありません。