余呉湖畔で戦国の歴史を!
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石碑も説明文もなく、土の盛り上がりがあるわけでもありません。気分は盛り下がってしまいました。ただ、この辺にあったことは確かでしょう。
名前 |
賤ヶ岳の合戦 秀吉軍土塁跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.1 |
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賤ヶ岳の戦いで豊臣秀吉公が柴田勝家との戦いで、余呉湖の周りに築いた土塁です。これに至った経緯を振り返ると、1582年6月2日の本能寺の変「織田信長が明智光秀にうたれる」。6月13日が山崎の戦い「豊臣秀吉公と明智光秀の戦いで光秀敗れる」。1582年7月16日が清洲会議「織田信長が倒れその後の織田家の後目相続争い」。1583年4月に賤ヶ岳の戦い「信長次男の信孝が柴田勝家と手を組み秀吉公と戦う」。1584年3月小牧長久手の戦いになります「信長三男信雄が家康に救いを求めて豊臣秀吉公と戦った」。実質的に織田家は無くなり豊臣秀吉公が実権を握る様になります。清須会議後、織田家の当主は長男信忠の子三法師となり、次男の織田信孝が後見役となりますが、冬になり北陸から柴田勝家が出てこられない隙をついて秀吉は岐阜城に入っていた織田信孝を襲い、三法師の身柄を信孝から奪い安土城に匿います。\r \r これで実権を奪われた柴田勝家と織田信孝は秀吉と敵対しますが、これが賤ヶ岳で戦いがはじまります。勝家は賤ヶ岳の決戦で敗れ越前の北の庄で自害、織田信孝は自害を命じられます。\r \r もう一人の信長の子・三男の織田信雄は徳川家康と同盟し、秀吉と対抗しますが、小牧長久手の戦いのおり、秀吉と単独講和してしまいます。\r また、この戦いにおいて秀吉と敵対した滝川一益も没落します。賤ヶ岳の戦いに戻りますと、豊臣秀吉公は余呉湖の南東の田上山に本陣を置き、一方柴田勝家は余呉湖の北東の福井と滋賀の境の玄蕃尾城をつくり、対峙します。豊臣方、柴田方双方に陣城を構え、土塁を築いていきます。秀吉公は田上山に本陣を、大岩山砦、岩崎山砦、賤ヶ岳砦などが築かれ柴田軍と対峙します。切岸、堀切、土塁などが今ものこっています。もう一つの守りの土塁としては、前線を守るため秀吉公は今の長浜市立余呉小中学校の北側に土塁をつくっていて、現在も少し残っているそうです。アクセスは、電車は、賤ヶ岳リフト山麓駅までは、北陸本線木ノ本駅からタクシーで5分またはバスで15分です。車は、賤ヶ岳リフトまでは北陸自動車道木之本ICより車で3分です。