鎌倉の面影、歴史を歩く道。
長久保道跡碑の特徴
鎌倉~室町時代のメインストリートが道に残されている場所です。
練馬城から光が丘へ続く歴史的なルートの一部です。
土支田地蔵や別荘橋を経由する古の道の魅力が感じられます。
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長久保は旧新倉村の字名だそうです。
| 名前 |
長久保道跡碑 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 評価 |
2.7 |
| 住所 |
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練馬城(今の豊島園)から光が丘、土支田地蔵、別荘橋を経て長久保に至る鎌倉~室町時代にこの辺りのメインストリートだった道。土支田に入ると別荘橋通りという名になる。長久保は、今の埼玉県和光市が白子村、上新倉村、下新倉村に分かれてた時代の上新倉村の最西端の集落だったが、明治の大合併の時にそれまでの新座郡が北足立郡に吸収されることになり、江戸時代なら役所なんて庶民には無縁な場所で名主がいれば用事が済んだが明治時代になると庶民も役所に行くことが出てきた為、その役所が浦和にある北足立郡では不便ということで合併に反対したそうです。(鉄道もない時代)しかし、合併は強硬され、業を煮やした長久保集落は上新倉村を離脱し、下豊島郡への編入を勝ち取ったそうだ。この時に編入が認められなかったら長久保は埼玉県だったのだろうか?さらに付け加えると、今の土支田4丁目から西大泉4丁目にかけて新座村というのがあったが、その村は合併を受け入れていたそうですが、小榑村・土支田村・橋戸村が合併して大泉になったのと、上新倉村の長久保集落が大泉に合併した板挟みにあい大泉に吸収されてしまったそうです。