歴史を感じる金ヶ崎城跡の眺望。
金ヶ崎城跡の特徴
典型的な山城で三方が崖に囲まれた天然の要害、兵糧攻めの歴史も感じられる場所です。
金ケ崎城は駐車場は公園駐車場に止めて出発先ずは金崎宮に向かいます。落ち葉がハート型とキリンの文字にその後しばらくは煉瓦敷きの道を歩き途中尊良親王御陵見込地にその後急な階段があったりと頑張っていくと金ヶ崎城跡と月見御殿跡に敦賀湾に見える船や北陸電力の発電所が見えます。
福井県敦賀市の金ヶ崎城跡へ平日の10:40位に行って来ました♪金ヶ崎城とは、織田信長の朝倉攻めの際に、同盟を結んでいた北近江の浅井家に裏切られ、挟み撃ちに遭うことから退き陣となったことが有名ですね。殿軍の豊臣秀吉や明智光秀が耐え、それを徳川家康が助けたとの逸話も残っています。金ヶ崎城は山城で、縁結びの神様で有名な金崎宮の左脇の桜並木の山道を登って月見御殿跡を目指しました♪10:50位に月見御殿跡に到着すると、古戦場の石碑がありましたね。また、明治42年に発見された古墳もあり驚きました。そして、奥に進むと敦賀湾が見える絶景が広がり素晴らしかったです♪ここは標高86mあり、南北朝時代にはこの場所に本丸があったようです。戦国時代にも武将がここで月見を楽しんだようです。海方向の右側には大きな敦賀火力発電所が見えていましたね。
城跡はあまり残っていないようですが、現在は神社や参道が整備されています。山というより小高い丘の様な感じです。駐車場は麓にあり無料で駐車出来ました。参道の階段や坂道はありますが、景色は非常に良かったです。金ケ崎城の御城印や御朱印は階段を上った先の社務所で販売されておりました。
神社あったり城趾あったり景色も良くて良かったですね。時間なかったのですべて回れませんでした。
徳川家康や明智光秀の大河ドラマの影響もあるのかよく整備されていました。元々は新田義貞の南朝方の拠点の一つですね。自害した尊良親王の碑もありました。堀切なども良く残っていました。
織田・徳川軍が落城した城です。結構キツイ登山でした。同時に落城された手筒山と繋がっているようですが、金ヶ崎城跡しか登れませんでした。展望台からの眺めがとてもいいです。海風が強く、カメラが持っていかれそうになりました。
真田戦記金ヶ崎城跡にて9月10日早朝に金ヶ崎城跡に行って参りました。前日深夜から近江・長浜に夜営し、10日早々に越前に討って出ました。途中些か道に迷いましてな。コジンマリとした集落に金ヶ崎宮の看板を見つけ現地に到着いたしました。本日は残暑が戻った感あり、汗だくになりつつ、山頂を目指しました。登山中、地元の年配の方と思われる方が清掃されているので、(そこの御仁、朝早くから御苦労に存ずる、あ~某は武田晴信入道信玄が家臣、武藤喜兵衛(真田昌幸)と申す若輩者で、我等武田と同盟関係にある織田・徳川・その他多勢の方々に主の代理で戦勝祝いを言上しに参りましてな。今度の戦は織田勢の楽勝でござろう。(本音は失敗を願う) )と、たわけた事を考えながら山頂に到着しました。山頂からの日本海の眺めは、なかなかのものでございます。史実では金ヶ崎城には朝倉景恒が4500の手勢で守っていました。攻め手の織田勢は30000。指揮を執るのは、織田信長・徳川家康・羽柴秀吉・明智光秀・松永久秀と後世、天下に名を轟かせた名将がキラ星の如く参陣しておりました。某が思うに、朝倉義景は、この時点で浅井長政が後背を突くのを確信していたのでしょう。さもなくば、あの海に面した難所に4500の戦力を有しながら、いとも簡単に落城する訳がありません。言わば、囮の様な物です。その後、日本海さかな街で、焼鯖を頂いてから帰国の途につきました。
金崎宮への参拝の後に展望台まで行きました急な坂や途中で降り出した雨で苦労しましたが素晴らしい見晴らしでした坂を登りながら歴史を感じれる良い場所です。
雰囲気のある山城跡でした。ハイキングコースにもなっていますので、紅葉狩りにも良いかと思いました。
名前 |
金ヶ崎城跡 |
---|---|
ジャンル |
|
電話番号 |
0770-22-0938 |
住所 |
|
HP | |
評価 |
3.8 |
周辺のオススメ

駐車場から良い運動でしたバリアフリーではないので、車椅子が難しいです。