安藤忠雄設計、特別公開の風の教会。
風の教会の特徴
安藤忠雄設計の教会で特別公開の貴重な体験ができる場所です。
六甲ミーツアート期間中のみ訪れることができる静謐な教会です。
シンプルな美しさと荘厳な雰囲気が詰まった特別な空間です。
二人共安藤忠雄さんの打ちっぱなしのシンプルな設計が好きで26年前ここで挙式を…仕事で来ましたが、今までの26年これからの26年…原点に戻り色々考えさせられました。六甲オリエンタルホテルは無くなりましたが、風の教会は不滅です。
長年行ってみたかったが、結婚式に呼ばれないと入れないという情報だったので諦めていたが、六甲ミーツアートではいれる事が分かり訪問しました周囲は荒地で道路から高低差もありウエディングドレスを着た人がどうやってここまで来るのか不思議だったが、コンクリートでありながら神秘的で素敵な建物で惹き込まれます。
元々六甲オリエンタルホテルの結婚式場として建てられたものです。1986年に安藤忠雄氏が初めて手掛けた教会建築として知られます。2007年にホテルが閉鎖され取り壊された後も、風の教会だけは残され六甲山中にひっそりと佇んでいました。安藤忠雄氏建築の代名詞みたいなコンクリートの打ちっ放しは、建築から長い年月を経てもぜんぜん古くなりませんよね。放置されたまま一時期は荒れていたそうですが、2018年に修復工事が行われ現在の美しい姿を取り戻したそうです。六甲ミーツアートの会場にもなっています。
安藤さんの教会3部作。《光の教会》はホンモノの教会で敷居が高い(失礼)事前に申込が必要、《水の教会》はトマムの星野リゾート内施設なので行くのが大変。ココは、六甲芸術祭の期間中限定とはいえ、秋の3ヶ月間なら入場料さえ払えば訪問出来るので、お勧め。
六甲ミーツ・アート散歩2022で訪れました。建築家の安藤忠雄氏設計「教会三部作」のうちの1つで、結婚式やフォトウェディング等での利用以外、普段は一般公開されていない教会です。今回は、現代アーティストの大巻伸嗣氏の展示会場でした。陽の光が優しく降り注ぐガラス張りのコロネードを進むと、右手にシンプルなコンクリート打ち放しの礼拝堂があります。\ufeff紅く染まった礼拝堂には西陽が射し込み、異様とも荘厳ともなんとも形容し難い空間が広がっていました。ちょうど鐘を鳴らすタイミングに立ち会え、20年以上鳴っていなかったという鐘の音は、とても美しい余韻を響かせながら空間全体を揺らしているかのようでした。素晴らしい体験に感謝です。ミーツアートの機会に是非!
2022/10/10六甲ミーツアートのイベントで伺いました。
安藤忠雄設計の教会六甲山アートミーツでの特別公開で見てきました。手前の造成地のような、六甲オリエンタルホテル跡地を通り抜けると忽然と姿を表せます。内部では、天井にアート作品が上映されてました。
安藤忠雄の建築物。ミーツアートで訪問しました。教会の入り口まで全く整備されていなくてポツンと奥の方に寂しい雰囲気の小さな教会だけがあるというシチュエーションに違和感が凄いというのがある。たどそれも全てアート作品として捉えるならそれもまた趣があると言えるのかもしれない。
ミーツアートの時期にしか見学で入ることができない教会です。安藤忠雄氏の特徴であるコンクリートが静けさを引き立てています。
| 名前 |
風の教会 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| HP | |
| 評価 |
3.9 |
| 住所 |
〒657-0101 兵庫県神戸市灘区六甲山町西谷山1878−78 |
周辺のオススメ
光と風、静寂に漂う余白風の教会に足を踏み入れる瞬間、空間は微かに揺れ、風と光、影と静寂が交差する余白が訪れる者を包む。建物の輪郭は確かに存在するが、光の揺らぎや風の微細な流れに溶け込み、どこまでが建築で、どこからが自然なのか、判別は容易ではない。扉をくぐると、空気が柔らかく振動し、光は壁や床、天井に反射しながら漂う。座る者の呼吸、歩く者の足音も、空間の波紋に溶け込み、身体全体で漂う感覚を生む。音は微かに反響し、空間の奥から回り込むように漂い、訪れた者はその波紋に身を委ねる。祭壇の奥を見つめると、光の差し込み方が絶えず変化し、影が柔らかく揺れる。時間の感覚はゆっくりと溶け、訪れた者の身体も心も、空間の揺らぎとともに漂う。ここでは、建築や装飾の細部を把握することは重要ではない。光と影、風と音、時間の波紋が、すべての感覚を満たすのだ。歩を進めると、床の感触、壁の冷たさ、天井の高さ、すべてが余白として心に染み込み、訪れた者はただ漂う存在となる。空間に漂う光や風、静寂と微かな音の重なりが、身体全体に波紋を描き、時間の境界を曖昧にする。窓の外に目をやると、光と影、風と水、自然の揺らぎが微かに差し込み、建物の輪郭と混ざり合う。訪れた者は、目に見えるものすべてが絶えず変化し、確かに存在しているが捉えどころのないことを感じる。光が揺れ、影が伸び、風が頬を撫でるたびに、ここにいることの確かさだけが心に残る。祭壇の周囲を歩けば、光の角度や陰影の微細な変化が増し、空間は絶えず呼吸しているかのように揺れる。人々の声や動きも、空間のリズムの一部として波紋を描き、訪れた者はその中で漂う。椅子に座って静かに目を閉じると、空間全体の呼吸と時間の揺らぎを身体で感じ、言葉にできない余白が心の奥に刻まれる。光と影、風と音、水と静寂は、建築の輪郭を超えて広がり、訪れた者の感覚を包み込む。身体が漂う波紋の一部となり、心は光と影、空気と時間の揺らぎに沿う。ここにいる瞬間、過去と未来の区別は曖昧になり、ただ「今ここにいる」という感覚だけが確かに存在する。教会の隅々を巡ると、光の変化や風の流れが微細に異なり、空間全体の揺らぎが身体に伝わる。それは目に見えるものを超えた存在であり、訪れた者はただその波紋に漂うだけでよい。音の余韻が消えても、光の揺らぎや影の微細な動きが残り、訪れた者の心を静かに揺らし続ける。外の風景や周囲の光もまた、空間の一部として溶け込み、建物の輪郭と自然の揺らぎが混ざり合う。訪れた者はその微細な変化に気づくか気づかないかのうちに、光と影、風と静寂の波紋に染まり、「ここにいた」という確かさを胸に抱く。座席に座る者も、通路を歩く者も、すべてが光と影、風と音、時間の揺らぎの波紋に重なる。身体はそのリズムに沿い、心は微かに波紋を描き、訪れた者の感覚全体が空間と溶け合う。祭壇の奥から差し込む光が揺れ、壁や床に反射するたび、空間全体が微細に変化する。その揺らぎは、訪れた者の存在を微かに揺さぶり、過去や未来、現在の区別を曖昧にする。訪れた者は、光と影、風と静寂の波紋の一部として漂い、空間の呼吸に身を委ねる。出口へ向かうと、光と風、静寂と微かな音の余韻が残る。訪れた者は、その余白を胸に抱き、日常へと戻る。風の教会は、言葉や説明を超え、「ここにいた」という確かさだけを静かに刻む場所である。光と影、風と音、水と静寂が交錯するたび、身体と心は空間の波紋に溶け、時間そのものが柔らかく揺れる。訪れた者は、説明できない余白を抱え、静かに漂いながら日常へ戻るのだ。