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名前 |
切子ボタン園 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.0 |
近松寺の切子ボタン園は、東松浦半島南西部・唐津市肥前町切木の出(いで)家で大事に育てられたボタンを株分けしたものです。冬には枯れますが、春ともなれば生命を蘇らせ大きな花を咲かせます。「立てば芍薬(シャクヤク)、坐れば牡丹(ボタン)…」と昔から美人の艶やか(あでやか)な姿に例えられるように実に美しい花を咲かせます。毎年四月下旬に満開期を迎え、直径25cm程の淡い紅色の八重の大輪を咲かせ、訪れた人の目を愉しませてくれます。(2017/06/20)切木ボタンの由来今から約四〇〇年前、肥前名護屋城(東松浦郡鎮西町)から豊臣秀吉の大陸進出の際、出兵した松浦領主・波多三河守は、その謂れのない怒りにふれ関東筑波山に流され幽閉され、その後、焼け落ちた波多氏の居城・岸岳城跡(東松浦郡北波多村、相知町)を訪れた波多氏の用人・井出賢介(後の出 賢斎)は、城跡に主君が愛した可憐に咲く一株のボタンを見つけ、切木村に持ち帰り屋敷で大事に育てました。このボタンは、波多氏の知人で貿易商の久保の塚本三鉄(キリシタン名サントス)が、明国(マカオ)から持ち帰り、波多氏に贈ったもので、波多氏の夫人・秀の前がことのほか寵愛していたものです。その後、出(いで)家で代々大切に育てられて来ました。今は数十株に分かれたように見えますが、根元は一株です。昭和四年、県の天然記念物に指定され、毎年四月中旬大小五百の花を咲かせています。中には切木ボタン特有の二重の花もあり愛好家を喜ばせています。切子ボタンに関するエピソード【博多祇園山笠と切木ボタン】秀吉の怒りに触れ筑波山に幽閉された松浦領主、波多三河守。その後、焼け落ちた波多氏の居城、岸岳城跡(北波多)を訪れた家来の井手賢介が主君の愛したボタンの一株を見つけ、持ち帰って屋敷に植えたのが始まりと言われています。また、三河守に同情した博多の人々は博多祇園山笠にボタンの花の飾り物を加えるようになったと言われています。※福岡市の中州観光協会のHPには、下記の案内があります。【山笠とボタン】舁き(かき)山笠、飾り山笠どちらにもボタン(造花)が飾られています。どうして山笠にボタンか?「切木のボタン」説があります。切木は、佐賀県唐津市肥前町にある地名です。ここの民家で育てられているボタンは大輪で、佐賀県の天然記念物に指定されています。地元の言い伝えによると、このボタンは今から約400年前、同地方を支配していた波多三河守が大切に育てていたと言われています。三河守が太閤秀吉の九州平定のおり町割りに参加せず怒りに触れ城は焼き払われましたが、その際、三河守の妻が重臣に依頼し、ひそかに持ち出され切木に移し植えられました。三河守が参加しなかったのは、秀吉が三河守の妻“秀の前”に横恋慕したのが原因と言われています。博多人は三河守に同情、山笠に飾るようにしたと言われています。