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| 名前 |
日中経塚遺跡 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 評価 |
4.0 |
| 住所 |
|
立山町にある日中経塚遺跡は、戦国時代の僧侶・賢海が母の逆修供養のために築いたと伝わる経塚で、蓮華文様や仏教信仰の深さを刻んだ銘文が遺された町指定の史跡である。日中経塚遺跡(にっちゅうきょうづかいせき)は、立山町日中の山あいに所在し、昭和9年に土地所有者によって偶然発見された。かつてこの地には「お経の塚」と呼ばれる伝承があり、発見の契機もその言い伝えによるものだったという。地元有志が調査を行った結果、塚の中心から地中およそ1メートルの地点に木箱が埋められているのが見つかり、その中から銅製の経筒と経石が納められていた。経筒は高さ11.4cm、口径5.2cmの小型円筒形で、蓋は打ち物の被せ式、天面には八弁の蓮華文の中心に梵字「バク」が刻まれていた。出土した経筒の銘文には「大永五年」(1525年)の年号が記され、発願者として「越中国新川郡住 賢海」の名が見える。賢海は俗名を伊東常久といい、供養の対象は「田部氏の女」であったとされる。銘文には逆修供養の趣旨と共に、妙法蓮華経六十六部のうち一部を奉納するという法華経信仰に基づいた強い宗教的動機が読み取れる。この経筒は発見当初、賢海の子孫と伝えられる富山市太田の演光寺に保管されていたが、後に立山町の文化財指定を経て、現在は富山県埋蔵文化財センターにより管理されている。出土した木箱の中からは「子安観世音経」の銘が刻まれた経石も発見されたと伝えられるが、詳細な確認は今後の調査による。子安観音は安産や子授けの守り仏であり、これが賢海の母のために納められたものであれば、当時の個人的な祈願と法華経信仰が融合した事例とも捉えられる。経塚とは、仏教経典を将来に伝える目的で埋納する宗教的施設であり、平安時代中期以降、特に末法思想が広がる中で全国に多く築かれた。立山地域でも法華経の信仰は中世を通じて広く浸透し、近世以降にまでその影響が及んだとされる。経筒に刻まれた「奉納六十六部之内一部」などの銘文からも、全国を巡って六十六部の妙法蓮華経を納めるという特有の信仰行為「六十六部廻国納経」が行われていたことがうかがえる。こうした行為は単なる宗教的営為に留まらず、当時の人々が死後の安寧や子孫繁栄、国家安泰を願っていたことを示す文化的表現でもある。日中経塚は昭和39年6月11日に立山町指定史跡に指定された。現地には立山町教育委員会が設置した解説板があり、経塚の構造や出土品の概要、銘文の内容が簡潔にまとめられている。なお、銘文の全文は『立山町文化財調査報告書 第16冊』に収録されており、経筒の形状や蓋文様についても詳細な分析がなされている。この日中経塚の存在は、戦国時代における個人の信仰と地域社会の宗教的風土を具体的に物語るものである。また、立山町にはこのほかにも複数の経塚が存在している。たとえば松倉地区に所在する松倉経塚遺跡では、享禄4年(1531年)の銘がある銅製の経箱が出土しており、同時期の経塚造営が町内で広く行われていたことがうかがえる。さらに、浦田地区の大藪塚(浦田新経塚)では、仏典の一字ずつを小石に刻んで納める「一字一石経」の様式が採られていたとされ、こちらは鎌倉~室町期の信仰を反映している。日中経塚を取り巻くこうした経塚群は、単なる遺跡ではなく、地域における仏教実践の痕跡として立山信仰の深層を伝えている。中でも日中経塚は、造立年代、目的、関係人物が具体的に記されており、立山山麓の信仰文化を立体的に理解するうえで重要な鍵を握っている。経筒という小さな器物の中に、家族の祈りと時代の信仰が凝縮されているこの遺跡は、静かな山里にひっそりと佇みながらも、確かな声で過去の物語を語りかけてくる。