俊寛僧都の墓で平家物語を感じて。
俊寛の墓の特徴
俊寛僧都の墓と銅像がある史跡です。
平家物語ファン垂涎のスポットとなっています。
多くの諸説が語られる神秘的な場所です。
2023年10月28日に墓参しました。俊寛僧都は、後白河法皇の側近で法勝寺の執行でした。安元3年1177年、藤原成親や西光らの平氏打倒の陰謀に加担し、鹿ヶ谷の俊寛の山荘で密議が交わされました。密告により、陰謀が露見し、捕らえられた俊寛・藤原成親・平康頼は、薩摩国の鬼界ヶ島へ配流されます。翌治承2年1178年、徳子の安産祈願の恩赦で、藤原成親と平康頼は、赦免されて島から都へ帰りました。しかし、鹿ヶ谷の陰謀の主謀者として、俊寛だけは赦されず、ただ一人、島に取り残されます。俊寛の侍童であった有王が、翌治承3年1179年に島を訪れ、俊寛僧都の娘から預かった手紙を渡します。手紙を読んだ俊寛は、断食して自害したと言われています。平家物語を元にした歌舞伎や能で有名な鬼界ヶ島ですが、どこの島であったのかは、諸説あるようです。ここ喜界島、鹿児島県三島村の硫黄島、長崎市伊王島、宮古島など色々とあるようです。
俊寛僧都の墓だと言われているお墓と銅像があります。地域の方々によって綺麗に管理されていると思いましたが、近くにトイレがなく駐車場もないので、周辺の芝生又は路上駐車をせざるを得ないです。また、俊寛僧都は平家打倒するために企てていた平康頼、藤原成経の3人の1人であり平家内部の密告により、鬼界ヶ島に流罪となっています。その後恩赦がありましたが、俊寛僧都だけ平家から赦されず、鬼界ヶ島に取り残されてしまったそうです。平家物語では鬼界ヶ島に高い山があり常時火が燃えて硫黄が取れると書かれていることから、歴史上は鹿児島県鹿児島郡三島村硫黄島とされているそうです。なお、喜界島と硫黄島以外にも俊寛僧都に関連する墓が2箇所あるそうで、喜界島に墓があるのは不思議です…まさか鬼界ヶ島から北や南へ船で行き来したのでしょうか…それとも源氏から逃げてきた平家の人々でしょうか…考えてみるだけでも歴史のロマンを感じられます。
平家物語ファンの方はぜひ。丁寧にお祀りされているという感じです。隣の区画にに見事な木が3本立っています。喜界島の北東の海岸沿いには、平家上陸之地もあります。
| 名前 |
俊寛の墓 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 電話番号 |
0997-65-3683 |
| HP | |
| 評価 |
4.8 |
| 住所 |
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諸説あるらしいが。