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南北朝時代辺りの宝篋印塔だそうです。時代が合わないですが、和泉式部墓とされています。和泉式部は平安中期の歌人。越前守大江雅致の娘。(中古)三十六歌仙の一人。二度の結婚、二人の親王との恋愛を経て、情熱的な恋歌で赤染衛門とともに貴紳に高い評価を受けました。最初の夫の任国が和泉国だったため、和泉式部と呼ばれました。紫式部とともに中宮彰子に仕え、清少納言(定子皇后に出仕)とも同時代の才媛です。(時は一条天皇の御代、気の利いた才媛を女房=侍女に雇い、天皇をもてなすのが宮中の後宮で流行った時代でした。)有名な「大江山いく野の道の遠ければまだ文もみず天橋立」を詠んだ小式部内侍は、和泉式部の娘です。しかし、母譲りの歌才を持つこの内侍は若くして亡くなりました。娘を失った絶望のふちで、和泉式部は絶唱を遺します。「昏きより昏き道にぞ入りぬべきはるかに照らせ山の端の月」出家の際、圓教寺の高僧・性空上人にあてた歌といわれています。さて、和泉式部墓と呼ばれる墓は、京都洛中・誠心院、京都・木津川市、山口県山陽小野田市、岐阜県や京都府亀岡市などあちこちに存在します。ちなみに、この宝篋印塔の前を走る道が、歴史ある鵯越古道です。源平合戦では、ここを通って源義経率いる鎌倉軍は一の谷に南下したと伝わります。