平清盛を感じる十三重塔。
清盛塚の特徴
清盛塚石造十三重塔は、県指定の文化財として存在感があります。
平清盛を供養する石塔は、兵庫港の歴史を伝えています。
清盛塚周辺は、一見無味乾燥な場所に隠れた名所です。
兵庫駅南側の海街の一角に在る石塔です。平清盛のお墓では無いですが、1286年と台座に刻んで有ります。また、1959年に兵庫県の文化財に指定されました。当初は、それ程広くなく、辺りを散策する途中で立ち寄る様なスポットかなと思います。隣に琵琶塚も在ります。
立派な石塔です。当初は別の場所にあり平清盛公の墳墓かと言われていましたが、大正時代に行われた道路拡張の際の調査で墳墓でないことが確認されたため、現在地に移設されたそうです。
兵庫運河の水門近く、工場や倉庫などが並ぶ、一見無味乾燥な場所の一角に清盛塚があります。弘安9年(1286年)建立の十三重塔が残り、隣には後の世代に建てられた清盛公の銅像。また、清盛の甥にあたる平経正の墓と伝わる琵琶塚の碑もあります。いずれも大正時代に移設されたもの。海を眺める清盛の眼には、遠い昔の穏やかな兵庫津の様子が今も映っているのでしょうか。
十三重の石塔もいい。清盛像は、六波羅蜜寺のものより認知度は落ちますが、結構有名です。イオンモールやだいぶつ様のある能福寺の近くです。
和田岬をはじめとする兵庫津、大輪田泊を整備し、福原京を首都と置いた平清盛を供養する北条貞時が築いたとされる十三重塔、鎌倉殿の13人をみた後なので13の一致の偶然にニヤリ。平清盛の銅像は松平健さんに似ている。
平清盛の縁を探して、この地に来た時、まず目に入るのがこの清盛塚でしょう。神戸と清盛の間柄をうかがい知る一番のものは、この兵庫の沿岸部の地自体、それが、清盛の開発事業によるものですが、その痕跡となる印と以外に少ないものです。そういう意味ではこの七百年余り立つこの供養塔は貴重な存在。
享年64の年で突然この世を去った平清盛。摂関政治・院政期の混乱期の中、平治の乱を制し、貴族に仕える武士の身でありながら、太政大臣迄上り詰め、孫の安徳を天皇とし、自らは外戚となり、政治の実権を握り、一時は平家一門栄華を極めたものの、そのため各方面の反感を買うこととなり、治承・寿永の争乱に至ると、ライバルの源氏勢に子息の平家一門が次々と敗北、晩年は、不安と失意の中で死を迎えることとなったのではと思われる。清盛死亡後、残された平家一門は、一の谷の戦い、屋島の戦いでも敗北、4年後の壇の浦の戦いで遂に滅亡することとなった。確かに清盛の生涯は、琵琶法師に平家物語で語られている「盛者必衰の理」を体現しているようである。また栄華を極めた清盛であるが、突然の高熱で死亡したとされ、その原因や遺骨の所在もはっきりしないのは不思議である。しかし平清盛は、一面この地で経ヶ島を造り、大輪田の泊を修復しようとしたり、京都から福原に都を移したりし、地元神戸の街の発展の基礎を築いた恩人であり、ちまたで言われる独裁者では決してなかったとされる。清盛の像と言えば、京都の六波羅蜜寺の像が有名であるが、ここ清盛塚の像も晩年の清盛の表情を彷彿させるようで、とても良い。両手を胸の前に置いているのは、 清盛自身熱心な法華経の信者であり、自らは太政大臣に上り詰めたが、政治の表舞台は一門の息子たちに任せ、自らは出家し、仏門に入り、僧侶となり、一切経を大事に抱えながら最期を遂げるポーズであると思われる。また大輪田泊を修復するときも、人柱を嫌い、経文を書いた石を沈めたりもしている。
清盛塚石造十三重塔、また平清盛の弟の経盛の長男で琵琶の名手の経正の墓とされる。琵琶の名手の経正の弟に、笛の名手の敦盛がいるので、音楽に特化した家系だったのかな。この平経盛の塚は明治時代に碑が建てられた模様。場所は大正時代の道路拡張で現在の場所に移されてるよう。清盛塚や、琵琶塚(経正)、須磨に敦盛塚と平家の興亡 = 平安時代の終焉から鎌倉時代の幕開けという歴史を感じるスポット。
清盛塚十三重石塔、弘安九年(1286)2月日の銘有り。裏に相輪が2本程転がっておりました。弘安と言えば元寇を思い出します鎌倉時代の兵庫の人達からえらく慕われていたのですねぇ。
名前 |
清盛塚 |
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ジャンル |
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住所 |
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HP |
https://www.feel-kobe.jp/facilities/detail.php?code=0000000094 |
評価 |
3.7 |
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清盛塚石造十三重塔。(202208)※県指定文化財。平清盛の墳墓ともいわれていた塚。平清盛像や琵琶の名手であった平経正(たいらのつねまさ)にちなんだ「琵琶塚」碑がある。🅿️駐車場あり。🚻トイレ未確認。※客観的に普通の物が『最高』の評価にはなりませんので悪しからず。