宇佐八幡宮から宇佐山城へ。
宇佐山城跡の特徴
標高336mの宇佐山に残る見事な石垣が魅力です。
登山道には小学生が書いたわかりやすい案内板が設置されています。
明智光秀ゆかりの歴史的な城跡で、往復90分の登山を楽しめます。
信長の古参の最重臣である森可成の主城、子沢山で森蘭丸や猛将鬼武蔵の森長可などは有名ですね浅井朝倉と戦っていたのですが延暦寺の横槍が入る事で宇佐山城にて憤死しました、これに嘆いた信長が一乗谷と延暦寺の焼き討ちを決めたんでしょうね、信長を諌められる唯一の武将、生きていれば歴史も変わっていたかも知れませんね車の方は宇佐山神社入口手前の赤鳥居のある豊平稲神社周辺にスペースがあります、道は分かりにくく狭くて急角度の坂で砂利の部分もあります、力の無い車やフル乗車だとキツいかも車を停めたらまずは宇佐山神社で安全祈願しましょう、神社側にも城跡への道がありますここからは標高差130m程を一気に登ります、砂混じりの山道でかなりツラいです、直登からつづら折りになる辺りで堅堀らしき場所がありました、道の途中にある地元の小学生が作った看板を見ながら頑張りましょう登り切る手前に残った本丸の石垣があります、元気があれば斜面を登り石垣に近づいてみましょうそしてまずは三の丸にいきましょう縄張り図と景色の案内があります、丸太の椅子で休憩して琵琶湖や伊吹山の眺望を楽しみましょう縄張り図をスマホで写真に撮り確認しながら歩き回ります、冒険派は下の段曲輪まで降りてみましょうそして本丸に向かいます、本丸は電波塔に占領されています、奥の二の丸に向かいます、有刺鉄線で囲われたエリアの左側の道を進み最奥まで進みます、外周側は急斜面で先の下にまた段曲輪が見えますがこちらは行けそうにありません搦め手側に降りる道もありましたが行く元気は無かったので来た道を戻ります、下り道は滑るのでトレッキングシューズ推奨ですねお疲れ様でした令和4年GW、写真は一応時系列です。
宇佐八幡宮への参道中腹より登山道があります。なかなかの勾配をゆっくりと登っていくと、宇佐山城の石垣が見えてきます。三の丸に向かうと、琵琶湖大橋の先まで見渡せる絶景が広がっています。地元のおじい様方も運動がてら登られてましたので、地域に愛されている場所なのだと、強く感じました。
宇佐山城跡西近江から京へ通じる要衝にあって、標高336m(比高190m)の宇佐山に主郭があります。現在は山頂に放送局のアンテナが建っていますが、主郭の周辺には野面積みの石垣や枡形虎口など織豊系城郭の遺構が残っており、当時の織田政権の城作りを垣間見ることができます。麓の宇佐八幡宮よりすこし急ですが登城路があります。【歴史】元亀元年(1570年)織田信長の命により森可成が築きます。朝倉浅井連合軍が坂本へ進軍してくると勇猛な武将として知られる森可成は城を出て迎え撃ちますが討死し、宇佐山城は落城寸前となりますが膠着します。その後和議を結び新たな城主として明智光秀が入城します。朝倉浅井方だった比叡山延暦寺に対抗するため準備を進め、信長は光秀に焼き打ちを命じます。元亀2年(1571年)明智光秀は宇佐山よりも湖側の坂本に城を築いて移り宇佐山城は廃城となりました。【アクセス】宇佐八幡宮から登城路があります。#お城 #城 #城跡 #滋賀県 #大津 #宇佐山城 #森可成 #明智光秀。
南北に長く、北から三の丸本丸二の丸と並んでいます。各曲輪の東側に石垣跡が見られ、湖西に領国支配を顕示するという説明も頷けます。二の丸南側に急坂を降ると馬の瀬が続き、小規模な堀切を越えると鉄塔があり、琵琶湖南岸の大津市街が見渡せます。地元の方のお話では、一年前位に三の丸周囲の木々が切り払われ、丸太椅子等休憩の整備をされたそうです。
宇佐八幡宮の右脇から山頂の宇佐山城跡に登る道があります。雨模様の日に行きましたが、落ち葉で滑って転落しそうになりました。生半可な気持ちでは行かない方がいいかも。山頂には、NHKの建物がガッツリ建っています。
標高335m、登城道に小学生が書いた案内板がいくつもあってわかりやすかった。ありがとう~m(._.)m遺構は石垣、土塁、堀切、竪堀に横堀、虎口ナドナド山城好きにはタマラナイ♪ヾ(@゜▽゜@)ノそれだけにアンテナ建設のでの遺構破壊がザンネン(T^T)しか~し.発掘調査では、識豊城郭の虎口が確定できてるらしい。折れ折れのクランク虎口が絶品o(^-^o)(o^-^)o石垣の残り具合も廃された戦国山城っって感じがスバラシイ♪( ☆∀☆)トーゼン眺めは琵琶湖が一望できて歴史ロマンにひたれたよん♪d(⌒ー⌒)!
本丸の石垣が見事に残っています。比叡山焼き討ち前には、明智光秀がこの城を拠点に土豪の懐柔策を進めており、湖西地区の重要な役割を果たしていました。比叡山焼き討ち時には、宇佐山城に信長が入城したようです。比叡山焼き討ちで武勲をあげた光秀は、坂本の地を与えられ、坂本城を築いて移ったため宇佐山城は廃城となったのではないかと考えられています。宇佐山城(うさやまじょう)は、滋賀県大津市南滋賀町に残る、中世の日本の城(山城)跡である。湖西周りで京都に向かうには避けては通れない位置にありました。朝倉義景・浅井長政の南進に備えるべく、琵琶湖と北国街道の押さえを意図する織田信長に命じられた森可成によって、近江滋賀郡に築かれました。宇佐山城は、信長が安土城より以前に近江で、最初に石垣による築城を行った貴重な城郭です。石垣の存在から宇佐山城は単なる陣城ではなく、恒久性を志向したものと考えられています。標高336mの高さがある宇佐山にあり、琵琶湖まで約1kmの距離しかなく、山頂からは一望できます。大手道は全く残っていないが、かつては山麓から山頂までまっすぐの道が通じていたものと推定されています。現在山頂の本丸跡にはNHKと民間放送のアンテナ施設が、中腹には宇佐八幡宮、麓には近江神宮が建っています。
廃城感が漂う素晴らしい石垣。
宇佐山城主は森可成です。信長の小姓の蘭丸のお父さんです。元亀元年1570年朝倉義景、浅井長政の南進に備え、琵琶湖と北国街道の抑えとして、織田信長が築城しました。信長が近江の国で最初に石垣づくりの城をつくったとして、有名です。最初の城主は森可成です。美濃国金山城の城主です。明智光秀の生家も程近い場所にあります。志賀の陣で坂本あたりで元亀元年1570年10月に朝倉、浅井軍の猛攻に耐えきれず亡くなり、その後は明智光秀が城主になっています。可成の墓は、坂本の来迎寺にあります。先祖代々の墓は美濃の金山城の麓にあります。明智光秀は暫くの間宇佐山城主になっていた時期の話として、地元の旧滋賀里村の言い伝えがあるそうです。赤塚村では、「明智さんが田んぼだけではと、山の所有権を村人の物になるよう交渉してくださり、今の我々の持ち山がある。その感謝を込めて山の広場で鎮魂の一文字の送り火をしていた」や見世村では、「明智に支えたことから(明光)という名字をもらった、お墓は大伴神社の南側の林の中にあった。お水を朝の暗いうちからおそないにいっていた」などである。古老は、明智さんと呼び感謝の念が代々口伝えで伝承されてきました。信長を討った極悪人ゆえに公の書類には残せずに、そっと語り継がれてきたといいます。福知山市でも光秀さんは、治水や税金免除などの功績により良く思われていて、御霊神社にまつられています。宇佐山は、近江神宮の山頂にあり、宇佐山は、336メートルで、宇佐山八幡宮の少し横から登ります。八幡宮から10分ぐらいで登れます。近江神宮からは、30分ぐらいかかります。アクセスは、京阪石阪線、近江神宮前駅下車し、近江神宮まで5分でそこから、30分ぐらいで山頂です。
名前 |
宇佐山城跡 |
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ジャンル |
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電話番号 |
077-528-2772 |
住所 |
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HP | |
評価 |
4.1 |
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神社から山道を30分位で登れます。以前ここを整備されたと新聞に出てて来たかった城跡でした。お天気も良くて人がいなくて最高🥰