歴史を感じる正覚寺城跡碑。
正覚寺城跡の特徴
正覚寺城跡は畠山政長の陣址で、歴史の深さを感じさせる場所です。
応仁の乱に関与した城郭化された正覚寺に、歴史を学べるスポットがあります。
神社内には正覚寺城跡碑があり、歴史的な背景を楽しむことができる場所です。
正覚寺城跡ですが、現在は旭神社内に城址碑があります。1493年(明応2年)に起きた「明応の政変」における「正覚寺合戦」の舞台でもあります。畠山政長が室町幕府10代将軍足利義材と幕府軍と共に高屋城に籠る畠山義豊を攻めた。この時に政長、義材は正覚寺城に本陣を置いた。ちなみにここから高屋城跡へは徒歩で2時間半ほどかかります。ちょっと戦うには遠すぎやしないか??🤔1577年織田信長が石山本願寺攻めの際にこの地に本陣を置いた。近くに畠山政長の墓所もあります!
旭神社の境内に石碑がある。周囲は住宅街になっているが、神社の駐車場があるので車で訪れることができる。
「正覚寺城跡」碑が木の下から移動していたかも。わかりやすくなっております。
遺構はありません。
神社内に石碑があるのみ。しかもご覧の通り、石柵のせいで見にくい。親長卿記によると、当時巷間では「正覚寺御所」と呼ばれていた足利義材が、拠点とした場所。
遺構は無し。現在は神社の境内。
畠山政長と畠山義就の家督相続により応仁の乱をお引き起こしたが終結後も対立が続き、1477年(文明9)畠山政長は正覚寺に陣を置き、畠山義就と争ったが、この時以来正覚寺は城郭化されたものとみられている。1493年(明応2)4月、義就の子である義豊率いる大軍に攻められ、25日政長は自害し、正覚寺城は焼失した。また、畠山氏の争いは政長の子・尚順に引き継がれ、1499年に義豊は河内で戦死した。1577年(天正5)織田信長が石山本願寺攻めの際、この地に本陣を置いている。
応仁の乱を引き起こした畠山政長の正覚寺城の城跡です。現在の旭神社の境内にありますが、説明書きも何もありません。
正覚寺城跡碑があります。説明板等はありませんでした。
| 名前 |
正覚寺城跡 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 営業時間 |
[水木金土日月火] 24時間営業 |
| 評価 |
3.1 |
| 住所 |
〒547-0006 大阪府大阪市平野区加美正覚寺1丁目17−30 |
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旭神社境内に城跡の石碑がありました。