琵琶湖を望む秀吉の跡。
大津城跡 石碑の特徴
びわ湖浜大津駅からすぐのアクセス便利な石碑が特徴的です。
1586年に豊臣秀吉が建てた平城の歴史を感じることができます。
遺構はなくても琵琶湖の美しい景色が楽しめるスポットです。
築城は天正14,15年頃で坂本城の遺材が用いられた。初代城主は浅野長吉(長政)で1600年京極高次城主の時、西軍との大津籠城戦(和睦して陥落)で大破し遺材は膳所城、彦根城に移された。大津城天守は彦根城天守に転用されてるとのこと。(以上、日本城郭体系より)関ヶ原戦いで捕縛された石田三成は家康がいた大津城の門前で晒し者にし大阪へと護送。城石碑のある場所が本丸で、現地縄張り図によると本丸から南側に半円状に奥二の丸、二の丸、三の丸と展開した水城のようです。今は市街地で当時の面影はないですね。
2023/1/9訪問びわ湖浜大津駅からスグの場所に石碑がありました。石碑の辺りが本丸があった場所。大津城の遺構は見当たりません。大津城の天守閣の一部は、彦根城に移築されたようです。
大津城(おおつじょう)は、安土桃山時代に近江国滋賀郡大津にあった日本の城。現在の滋賀県大津市浜大津、びわ湖浜大津駅(京阪京津線・石山坂本線)周辺一帯にあった水城である。二の丸・三の丸は内陸側にあり、本丸は当時の琵琶湖岸に面し、共に港の機能を担っていたが、現代の大津港はその沖側を埋め立てて建設されている。関ヶ原の戦いでは激しい城の攻防戦が行われた。その騒音は連日京都にまで届き、市民の中には弁当と水筒持参で見物に行く者まで出たという。戦後に廃城となり、天守などが膳所城や彦根城に移築されたと伝えられる。彦根城の天守がかつての大津城天守の用材を転用して建てられている可能性が、昭和32年(1957年)に行われた彦根城天守解体修理の際に符号、墨書きが見つかったことを根拠に示されている。これにより大津城の天守は望楼型の4重5階であったと考えられている。
遺構は、ありません。駐車場になっています。時代の経過を感じます。琵琶湖が近くにあるのが、名残を感じます。大津城(おおつじょう)は、安土桃山時代に近江国滋賀郡大津にあった日本の城です。1586年(天正14年)、豊臣秀吉は坂本城を廃城とし、浅野長政に命じて新たに築城しました。大量の部材が移築されました。その後、城主は増田長盛、新庄直頼と代わり、1595年(文禄4年)に京極高次が城主となり6万石を与えれました。1600年の関ヶ原の戦いで京極高次は東軍に属し大津城に籠城しました。ただ、大津城は琵琶湖の水運を利用して美濃、越前方面から運ばれてくる物資を安全に保管するための城郭であり、攻防戦には不向きでした。9月7日より毛利元康・立花宗茂ら西軍1万5000に城を囲まれ攻防戦が開始されました。これに先立ち、京極軍3000は12時間かけて城下を焼き払い、町は荒野と化しました。京極軍は家臣赤尾伊豆守、山田大炊以下、奮戦し、7日間持ち堪えましたが、9月13日からは近くの長等山から大砲で砲撃を受けました。砲弾は眼下に落ちるような勢いで、天守その他の建築物を破壊し、城内が混乱した間隙を縫って立花軍が二ノ丸までを占拠しました。そこで、北政所の側近孝蔵主と高野山の木食応其の仲介により、講和が成立しました。9月14日に降伏開城した高次は園城寺に入り、剃髪して高野山に上がりました。ただ、西軍1万5000を大津城に釘付けにした功績は大きく、戦後、徳川家康は高次を召しだし、若狭小浜城8万2000石に加増転封されました。
京阪びわ湖浜大津駅のペデストリアンデッキの上から、花噴水や大津港の船が良く見えます。天気が良い時、太陽光線の方向が合えば、虹が見えます。
大津港あたりにあって、1586年豊臣秀吉が建てた平城です。城主は浅野長政や京極高次がはいってます。坂本城から移転し、坂本の城下町も4、5個移転されてます。坂本町、小唐崎、柳町など大津の城下町に今ものこされています。大阪城が🏯できて、京都から大阪へ行くのに便利になったからの移転といわれてます。1600年関ケ原の戦いにいく、毛利元康、立花宗茂軍15000人が立て篭る京極高次3000人を攻めます。高次は毛利や立花軍の来る場面がよくわかるようにと、城下町を焼き払っています。立花宗茂は関ケ原に到着していましたがもう一度大津に戻されてます。また立花宗茂は長等山から大砲を大津城🏯にうちこんでますし、城が壊れこんらんの最中に二の丸に侵入しています。大津城は仲介の上開城されました。8日間落とすのにかかり、関ヶ原にいくのが遅れ、西軍はここでくいとめられました。高次は髪を切り園城寺に入り、そのご高野山に上がっています。そのご大津城で家康は戦後処理を行い、高次は西軍を食い止めた功績により、若狭小浜城38000石の城主になってます。そのご大津膳所城にうつされました。大砲て打たれても残った天守は縁起がよいと、彦根城にうつされました。石垣や他の建材は膳所城に🏯移転されました。家康は大津城のように長等山などの山が近くに有る城の脆さをしり、近くに山のない膳所に移したともいわれています。現在は市街地になり、何ものこってないですが、大津港の前に大津城の石プレートがおいてあるだけです。しかし、当時の石垣が2箇所で発見されています。ひとつは、中町商店街のなかにあり、大津祭曳山展示館の駐車場に外堀の石垣が残されています。もう一つは、浜町にあり、朝日生命ビルを建てるときに、中堀の石垣の石がゴロゴロでてきたそうです。いまは、朝日生命ビルのまえに、当時の石が積まれみることができます。
これだけなので、通りすがりで十分でしょう。
昔大津城があったとされる場所。昔は関ヶ原の戦いで重要な戦で大津城の戦いがあった場所ですが今はかすかに石垣程度が残ってるだけです。
『城跡』みたいな風情は皆無です。但し、陸橋の上からの琵琶湖と比叡山の眺望は中々です。
名前 |
大津城跡 石碑 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.2 |
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石碑がなければ見落とします。